モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo(沖縄)

でもそれって幸せなの?は崩壊している

頑張っていることは、それだけで完結している

 

頑張っている、努力している。

そのように自負する人がして、そのように思う自分もたまにはいる。

これは特に仕事面での話です。

 

(ここで言う頑張っている努力しているはとくにプラスの意味ではなく、ただその状態であるというだけであり、美徳について言っているわけではない)

 

頑張るのは、努力するのは、基本的には何かに向かってのこと。夢や希望、あるいは幸せというゴール。

 

しかしその過程であるはずの頑張りや努力が日常化してしまって、頑張るために生きている、努力するために生きていることになってしまっている場合が少なくないサンプルとしてあるでしょう。

 

目標や、夢や希望が漠然としたところから始まっている場合など特にそうなりやすいのではないでしょうか。

 

(余談)

でも基本的に人はそうなのだろうとは思う。

少なくとも私たち日本人は、大人になれば働かなければならないという意識があり、大体おいてその前提から夢が始まるわけであり、具体的な夢が見つからなくても我々は労働環境に身を置くことになる。

 

しかしまあ具体的な夢や目標がなくとも、なんとなくいつかは幸せになりたいくらいの意識は持っている人は少なくないのではないかと思う。

 

 

競争を勝ち抜き、トップを目指す!  

努力家のAさんは一流企業に入り人一倍の努力を重ね、順調にキャリアを積み上げていた。

パワハラモラハラ、セクハラ(女性の場合)、残業と、会社からのブラック的な扱いにもめげることなく日々一生懸命頑張っていた。

 

努力をやめた同僚のBさんはその会社を辞めてもっとゆるい会社へと転職する。

Bさんはステータスを維持するために身を粉にして働くことに疑問を感じ、新たな生き方を求めたのだった。

会社内部は競争すべき、戦うべきという皆同じ意識だったから、その会社自体を辞めるべきだと判断したのである。

 

三年が経ち、あるときAさんとBさんは二人でお酒を飲むことになる。

 

Aさんは同じ会社でまだ同じように頑張っていて、Bさんは生活のランクは落ちたもののなんとなく気楽に生きていた。

 

「CさんとDさんもそっちの会社辞めたらしいけど、やっぱりそっちの会社で働くことって大変なのかな」

とBさんは訊いた。これはAさんに対しての揶揄も込められている。

(あなたまだそんなことしているの?)

 

「二人とも何か目標があるってことで辞めたみたいだけど、結局は成果出てないみたいだし、ただの脱落組じゃないかなと感じるね」とAさんは言う。

 

そのAさんの返答にBさんは少しカチンときた。

自分はCさんやDさん側だという意識があったし、未だ同じところにいるAさんを見下したいという感覚も無意識下にはあったし、自分の生き方を認めてもらうために持ち出した話題でもあったからである。

この後に自分はいい感じに暮らしているという自慢話をさりげなくしようと思っていたのだった。

 

「でも、色々ときつい職場(ブラック企業)で働くよりも、結果成功しないにしろ、新しく目標を持っていくっていうのは悪いことではないと思うけどな」

とBさんは言った。

 

「いや、高い目的意識があれば、色々きつくても乗り越えられるはず。わざわざ辞めなくてもうちの会社は副業が禁止なわけでもないしね。

まあでも時間の制約があるから副業は難しいかもしれないけど、でもまあ、CやDがどういう目的を持って辞めていったかはわからないけど、うちの会社がきついことも理由にあるとすれば、あまりいい辞め方な感じはしないかな」

とAさんは言う。 

 

「きついことは理由に入れたらだめ?」とBさんは言う。

 

「うん、そう思うね。確かに嫌なことは多いけど、ハラスメントにしろ、過剰労働にしろ、それを乗り越えることでの成長や、裁量権の獲得や、立ち場の向上も見込めるわけだし、辞めて他のことをするってことはこれらを諦めるってことだよね」

とAさんは言う。

 

Bさんは思う。

Aはそのような生活をいつまで、どの段階まで続けるのだろうかと。社会的立ち位置を気にした生き方になんの価値があるのだろうと。

 

そしてBさんは言う。

その生き方って幸せ?

 

言ってしまった。

もしその先に大きな目標があったとしても

「そんな生き方ってどうなのよ、間違ってるでしょう。先の何かも大事だけど、それ以上に今が大切じゃない。」

と思ったわけです。

 

その生き方って本当に幸せ?の後には何もない

 

Aさんはその会社で頑張っています。頑張りきれています。その生き方が本当に幸せであるかどうかの議論は、実は論理の飛躍になり、繋がりがありません。

頑張っている、努力している、から幸せへの矢印は出ていません。

 

ただただAさんはステータスの高い会社で頑張って働いている、その自分を維持している。だたそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

その世界でAさんは呼吸をしているし、うまく呼吸できているのです。

 

違う生き方を選んだBさんはAさんの会社の空気を知っているし、別の場所の空気も知っています。

それだけに、別の風もあるよということ教え、納得してもらいたいと思うかもしれませんが、Aさんには関係のないことなのです。

 

Bさんはそれって幸せ?という抽象的なセンテンスを持ち出して勝手に自分の優位性を保とうとしているわけですが、Aさんには効果はありません。

 

その質問をされたAさんは思考の流れを変更することになります。

今の会社で存続することができている、

ということは世間的にある程度認められた存在である 、

親戚の間でも鼻が高いし、親も喜んでいる、

給料もいい、

将来的にもなされるべき大きな仕事もある(だろう)、それが今後の目標にもなるし、生きがいにもなる(はず)、

子供にもいい教育を受けさせることができる。

ets...

 

といった感じで論理を展開させ、

よって自分は幸せと言えるのではなかろうか。

という結論をようやく導き出すでしょう。

 

いくらでも自分は幸せであるというところへ帰結させることが可能です。

 

ただ、私が言いたいことは、Aさんにとってその会社で働いていることと幸せであるということには繋がりはないということです。 

 

幸せなんて抽象的すぎる

 

幸せとは何だろうなどと深く考えていたら極端な話、人は何もできなくなります。

抽象的であり、感覚的なものですから。

それに伴い、それって幸せ?という疑問は追求が難しいものとなります。

 

幸せなんて人それぞれである。と私は言いたいわけではありません。

 

幸せであるかについての議論は間の何かをすっ飛ばして行われることが多く、共有すべき前提がないと噛み合わないものであるし、前提が共有されていたらいたで、内輪話になってしまって結局は共感して終わるだけで、自分の価値観を強化するだけです。

 

前提の共有とは、

例えば、女は30前後で結婚して子供が二人くらいるのが幸せだろうということをお互いに思い合っている。

など。

その前提を持っている人の間ではうまく話が進みますね。

 

ここがずれているとお互いに認め合っている中でない限り話はもつれます。喧嘩になったりもしますね。 

それって幸せ?と言う質問はそのもつれに飛び込むようなものです。

 

 

まとめ

同じ形をした人間でも、内側で考えていることや、感覚的なことはまるっきり違っているところが不思議ですね。

しかし、それでも我々は同じ空間で生きていることもまた不思議ですね。

多分フロイトが発見した無意識という領域がまだまだ広大なのでしょう。

きっとその中にこの不思議が眠っています。

 

 

 

 

 

自分の正しさを主張したくなる!アドバイスはいらない

女はよく喋る

喋って喋って喋り捲る。

なんでこうも喋ってしまうのだろう。

喋った内容は特に覚えていない。

とにかく何かを吐き出した感じが気持ちをスッキリさせるし、喋れば喋るほどそれに呼応して快楽物質が脳で弾けるのがわかる。

 

でもこれは単純なおしゃべりのこと。

おしゃべりとされているトークジャンル、コミュニケーションジャンル。

おしゃべりをするために集まり、おしゃべりをして別れるという状況、前提。

通常の会話ではそうはいかないこともあるよね。

 

 

気持ちを成仏させる

とても腹が立ったときや、むかっとしたときなど、

その時の状況を誰かに事細かく説明すると気持ちが落ち着きますね。

 

例えば腹が立つ例として

上司に頼まれ指示通り処理した案件があり、

指示通りやった結果その仕上がりが最終的に正しいものではないことが判明した途端のこと。

 

上司

「私はそういう風にやれとは言ってない、お前が勝手にそう解釈してやったことだ。

これからはしっかり意味を考えてやりたまえ。

そのあたりの融通とか工夫とか臨機応変性を磨かないとダメだぞ、全く」

 

理不尽極まりないこと。

 

このような出来事は全部、あるいは誇張してでも誰かに再現を聞かせるに限ります。

そして行き場のないさまよう気持ちを成仏させてしまいます。

スッキリした気持ちになりますね。

 

でもそのように気持ちを成仏させてしまうには条件があります。

相手がその話を飲み込んだかどうかによって、気持ちが成仏されるかどうかは決まってきます。

 

想いをジョウカさせる

きちんと成仏させられたときのことを「想いがジョウカ」すると言った人がいました。

言葉だけで聞いているのでどの字が当てはまるのかはわかりませんが、

多分「蒸化」じゃないかと思います。

 

昇華とか浄化とか先ほどの成仏的な意味合いで、想いを蒸化させるという感じで使います。

うまく言ったものですね。

言葉にすることで「気持ちを蒸発」させ、嫌な気持ちや、鬱憤などを無くすという意味合いです。

 

 喋り捲ることで感じる何かを吐き出した感は「想いを蒸化」させたとも言えますね。

 

 ですがやはり想いを蒸化させるには条件があるんです。

 

 

相手の話をよく聞くこと「傾聴(けいちょう)」

想いを烝化させるには相手が自分の話を真剣に聞いているなと思えることが条件になります。

ただ話すだけでは烝化されません。(想いのレベルにもよる)

 

そして的確な相槌と、共感を示してくれることがさらに重要になってきます。

自分の言葉が相手の中に収まり、相手がそれについて想いをめぐらせ、その上で自分のことを肯定してもらわなければなりません。

 

聞き手目線で言うと傾聴すると言うことになります。

傾聴とは相手の話を深く聞くというような意味です。

 

聞き手が傾聴してくれることでやっと気持ちは烝化されます。

 

 

自分の想いを主張したくなる聞き手(本題)

 

傾聴とは、深く聞くという行為ですがこれが実は簡単なことではなかったりします。

 

先ほどの例文

「私はそういう風にやれとは言ってない、お前が勝手にそう解釈してやったことだ。

これからはしっかり意味を考えてやりたまえ。

そのあたりの融通とか工夫とか臨機応変性を磨かないとダメだぞ、全く」

 

こんなこと言われたのよ!ムカつかない?

うんムカつく!これは無能な上司だ!

このような返答は気持ちは烝化されやすくなりますね。

 

しかし

 

こんなこと言われたのよ!ムカつかない?

んーでも上司の言うことにも一理あるよ。言われたことをやるだけじゃなくて、この案件の君の仕事が、最終的にどのように使われていくのかを自分でもできるだけ把握して、その上でこの指示は正しいのか間違っているのかを考えないとダメな時もあるよね。

 

と、このように言ってしまう場合があります。

なんてひどい聞き手!自分ならこんなこと言わない!と思う人も多いと思います。

しかし、言ってしまうのです。

誰しも言ってしまう可能せがあるのです。

 

 

なぜ自分の意見を言ってしまうのか

 

区別するために愚痴をこぼした人を女性とし、聞き手を男性だとします。

 

女性のこぼした愚痴には相手に対して強いフックとなる要素が含まれてしまっているのです。

フックとは相手の感情に刺激を与える内容性や言葉のことです。

(正式用語かわからないですが私的に)

 

聞き手の男性が

過去に自分も同じことを言われ、それを自分で工夫、改善したことで成長できているという自負があり、さらに自分が上の立場になったときに、言われたことだけをやり考えることをしない部下が多いなぁと感じている場合、女性のトーク内容には抑えきれない想いが湧き上がってくるのです。

それがフックに引っかかる。(と称しておきます)

 

お気づきになられた方もいるでしょうか。

女性の話を聞くことで、男性にもまた成仏させたい想いが体に中に沸き起こってるのです。

 この想いはとてもほおってはおけません。

 

 

怒りと正論の戦い、正しさはどちらにあるのか

  

烝化させたい想いがぶつかりましたね。

 

喧嘩などにもよくこのようにどちらも間違っていないパターンのようなものはあるのではないかと思います。

(それについてはまた書こうかな)

 

 

男性の主張を正論としておきます。

仕事の面においては彼のような態度の方が将来的に良い方向へ進む可能性は高いですね。

 

女性の主張を(理不尽な目に合わされたことによる)怒りとします。

何につけて理不尽な目に合わされると人はものすごくストレスがたまりますよね。

ストレスを溜めるのはよくありません。

 

正論と怒りの対立ですが、落としどころはどこにすればいいのでしょう。

 

一つの策として、怒りをまず沈めてから、正論を主張するというものがあります。

 

まず彼女の想いを烝化させ、落ち着いたときに優しく正論を主張することで円満な流れを作り出すというものです。

 

ですが、実は私はこの帰結はあまり好きではないのです。 

 

 

怒りは正論を上回る 

上の解決策、

まず怒りを烝化させ、そのあとに(正論を主張したいという)想いを烝化させました。

(女性が彼のアドバイスを受け入れた場合) 

 

ですが優先順位こそ怒りが上に来ていますが、結局両方を烝化させています。

 

それがあまり好きになれないのです。

 

どいうことかと言いますと、

極端な話、正論の方はいらないのではないかと私は考えるのです。

 

相手の女性の主張に釣られている感じが好きになれないのかもしれません。

 

最初にこの話題を持ち出した女性の気持ちを烝化させてあげることが最優先であり、最終目的である方が好きです。

 

 なぜかと言うと。

今回の正論はこの男性のためのものであって、女性のためのものではない可能性があるからです。

 

さらに、もしかするとこの男性は、自分が成長していると思い込んでいるだけであって、実はそこまでであり、問題が起きた時、別の解決方法を取っていた方がより良い人生を歩んでいたかもしれないのです。

 

女性のこの怒りは人間の根源的なものであり、尊重されるべきものである可能性は高いですが、男性の正論は自己満足の可能性が高いと言うことです。

 

 

アドバイスなんていらないわ

彼女の想いを烝化させてあげるだけでいいじゃないですか!

と私は思います。

 

それについての有効なアドバイスをあなたは知っているかもしれません。

経験上、色々な解決方法を知っているのかもしれません。

でもそれは一つ次元の低い話です。

 

アドバイスを求められたときにだけ具体的に言ってやればいいのです。

相手は自分の知らない大きな可能性を秘めているかもしれません。

自分の枠に相手を入れ込もうとせず、大きな目で見守ってください。

 

相手をしっかり見て、言った方がいいアドバイスだなと感じたとき、別なときにさりげなく言うことは有りかもしれません。

これはまた別のコミュニケーションとして別枠ですので今回の限りではないでしょう。

 

 

飲み込むべき想い

今回、男性は自分の想いを飲み込む形になってしまいます。

言いたいことが言えないのはとてもストレスが溜まるかもしれません。

しかし勇敢なことです。

 

相手の気分をよくさせることができたということになりますから。

このストレスを自分を見つめ直すきっかけにしてもいいのではないかと思います。

自分は本当に正しい人間であるのかということを。

 

 

愚痴りすぎもよくないよね

反対の愚痴り手の側のあり方として、

 

とてもよく聞いてくれる聞き手が身近にいた場合、その人にあらゆる愚痴をこぼしてしまう可能性が出てきますよね。

 

ですが、愚痴を聞いてくれるその人は、あなたのその起きた出来事を追体験しているかもしれません。

それによって大きなストレスを抱えているかもしれません。

主張したい想いを抑えているかもしれません。

あなたのそのストレスを肩代わりしている状態になっているかもしれません。

 

そこであなたは「あースッキリした、ありがとう」だけで終わらせてはいけないかもしれませんよ。

(そういう聞くことが好きだという人も中にはいるかもしれませんが)

 

なので聞いてもらったことに対しての感謝の気持ちは忘れないようにした方がいいでしょう。

 

そして、スッキリしたあとには自分を疑う視点も必要かもしれません。

自分に直すべきところはないのだろうかと。

 

そしてたまには怒りを自分で処理してみるのもいいかもしれませんね。

自己の成長のためには、なんでもかんでも烝化させてしまうのは勿体無いことかもしれませんよ。

 

まとめ

他人は自分と違う感覚で生きています。

大きな懐で持って接していこうではありませんか。

 

 

 

安楽死を選択する夢を見る。なぜ私は死のうと思ったのだろう

なぜ自分は安楽死を選んだのか

 

なぜ自分が安楽死を望んだのかわりません、しかしそこから夢は始まりました。

その夢の前に理由となる事態があったのかもしれませんが、そのことはもう思い出せません。

 

覚醒した意識の中でまず、夢とはなぜ唐突な設定から始まるのだろうかという疑問が私の頭を支配しました。

今述べたようにだた忘れてしまっているのか、それとも本当に唐突なのか。

でも夢事態、不可思議なものでありますからそこを深く考えても始まらないのだろうという結論に落ちつきますが、どうしても気になってしまいます。

いつものこと。

私は前提というものを必要としてしまう気質らしいです。

 

話し相手に対して、この人は何の話をしているのだとうと思うことがよくありますが、自分の夢に対してもやはり、これは何を前提として、どういう始まりになっているのだろうと気になってしまうのです。

 

やっと体を起こし、椅子に腰掛けしばらくぼうっとしていると、机の上の置かれていた「失われた時を求めて」が目につき、その冒頭を読み返してみました。

失われた時を求めてプルーストの長い小説)

そこでは語り手が夜床につきながら朦朧とした意識の中で先ほどまで読んでいた書物の内容と自分を交錯させる場面が出てきます。

このシーンを目にし私は再び己の先ほどまで見ていた夢についてを考えました。

 

こうやって夢は忘れられていくのでしょう。

目の前にプルーストがあり、その内容が自分の今の感じと重ならなければこの夢は多分一生思い出されることはなかったのだろうと感じます。

 

それに加え、よほど夢を追ってみようと思ったのは、プルースト失われた時を求めての冒頭の文章が素敵だったからに他ならなりません。

どう素敵であったかはとても表現しづらく、それを表現できる言葉の力を私は持っていません。

 

可能な限り安楽死の夢を思い出す 

 

まず私は知人から安楽死ができる錠剤を受け取り、飲むところから始まります。

ですます調では語りにくいので、ここからはである調で語りたいと思います。

 

 

その錠剤を持つ知人は「本当にそれでいいんだね」と私に問う。

「それで構わない、もう決めたことなんだ」と私は言った。

 

それを飲むと私はしばらく、神社のような広々とした屋敷の縁側に横たわって眠りに入るが、少しして目を覚ます。

 

目を覚ました瞬間の今寝ていたのだろうという感覚でもって、今寝ていたことを認識することができた。

 

(でも一方で夢の中にあって、寝ながら今寝ているんだなという感覚もあったように感じ、それはもう一つの意識感覚のように思える。

 夢の中とは自分がどの視点でその物事に関わっているのかわからないときがある。一人称なのか三人称なのか。しかし己は必ず存在することが不思議だと感じる)

 

 

私はまだ死んではいない。

 

場面は急転し今度は私は祖父母の昔ながらの古い家にいる。

(現実では、この家は取り壊されていて存在しないが元々存在した家になります)

 

私はもうすぐ死ぬのだということを意識しつつ、古さのあまり清潔感のないトイレで用をたし、お風呂に入ったりしていた。

そこには祖父母は存在しない。

懐かしき古い民家、そこに漂う祖父母の面影、そしてこれからの自分の死、

これらが作る雰囲気の中私は、切なさを含む少し惨めな気持ちになったいた。

  

そしてまた場面は変わるが、そこがどういう場所なのか、、多分この世には存在しないだろうと思う。

(しかし、霊界の類である非現実的な場所のことを言っているわけではなく、単に夢でありがちな何の施設なのかよくわからないような場所である。)

 

大きな体育館のような建物のある広い施設空間で、その施設の一部には工場のような何かしらの生産ラインが設置されていた。

風景全体の色味は明るめのクリーム色をしていて、終末的な匂いがしなくもない。

(しかし私の夢は基本的に白黒である)

 

体育館の中に移り、目の前でバレーボールをしている同級生を眺めながら私の中にふとある思考感覚が持ち上がる。

「死んだ後の次の世界において、私はこの中にこれから加わっていく」

 

目の前でバレーボールをしているこの同級生(高校生)の中に死んだ後の私は加わるのだろうと実感している。

 

ただそこは死後の世界ではない。

私が輪廻転生でこの世に生まれ変わっているという状態変化である。

そのように私は今後のことを想像していた。 

 

「私が死んでも私のことは覚えているよね?」と私は同級生に問う。

「もちろんだよ」同級生は言う。

なら大丈夫だ、そのまま仲間に加わることができる。

 

しかし、私自身は前世のことを覚えているのかしらと思い、まだ死んでいない死ぬ前の私は、現時点で前世のことを思い出してみると、その記憶は存在した。

さらには、それは今世での経験へと繋がっているようでもあった。

 

 この繋がりに関して疑問を感じた私は次のことを考えた。

目の前のバレーボールに加わる来世の自分は今と同じ年齢だろう。

私は死んだ後、いきなり今の状態で来世に誕生するのだろうか、それとも赤ん坊から誕生し大きくなった今の頃の自分の状態でバレーボールに加わっていくのだろうか。

 

そして前世の記憶は今世の途中と繋がっている。

今の私は今世で赤ん坊から誕生しているのかどうかは、思考の範囲外となっていて思い出せなかった。

 

時間軸の狂いの可能を含めた不思議な繋がり。

来世では一旦私は赤ちゃんから誕生し、今の年頃になって目の前のバレーボールに加わるのかもしれない。

私は18年先の未来の状態を、今の状態とあたかも繋がるかのような有様で、時間が平行に流れているかのような有様で、見ているのかもしれなかった。

 

また場面は変わり、今度は同士が現れる。

少し年下の女で、彼女もまた死にたいと思っていた。

彼女はどうやって死んだらいいのかと悩みを私に打ち明けていたが、そのときは安楽死の選択肢はなかった。

私は彼女に対して死なない方がいいんじゃないかと持ちかけるが、彼女は死ぬことを諦めなかった。

私自身は死を選んだわけだが、他の人が死のうとしている状態には通常の意識が働いていて死なないようにと諭すが、しかし結局強く止めようとはしなかった。

 

私たちはよくわからないその施設をぐるぐる周りながら話を進めていた。

 

彼女は生産ラインの装置の中にある、重たい物体を振り下ろす機械に目をつけ、自分の上に落下させて死のうと試みるが、振り下ろされたものがギリギリ当たらずに失敗に終わる。

彼女はとても私を慕っていて、それは私の死の雰囲気に巻き込まれているようにも感じられた。

 

次に場面が代わり今度は、私は学校(高校)にいた。

私は学校のあちこちを回って知り合いに別れの挨拶を行っていた。

一つの教室を訪ね

「私はこれからいなくなるけどまた別の機会に会おうね」と言う。

「うん、じゃあまたね」と知り合いは言う。

 

それから私は慕ってもらっていた彼女と合流し、彼女の死について模索するがその後、彼女の面影は徐々になくなっていき、なぜか今度は私のいくつか世代の違う男の子が登場する。

私は今の状態(18歳くらい)でありながら、世代違いの男の子を自分の孫のような存在として捉えていた。

その孫的な彼は一生懸命何かに抗っていて、最終的にはその抗いが成功する。

もしかするとそれは死への抗いだったのかもしれないが、それが象徴する具体的な行為はよくわからず、ぼんやりと見えているだけだった。

とにかく懸命に何かに抗っていたのだ。

 

私は孫世代のその功績に感動し涙し、そこで夢は終わる。

 

 夢の失脚スピードは早い、結局私はなぜ安楽死を選んだのか

不思議な夢に心がざわつき、プルーストの美しい文章も手伝って、 

自分が安楽死を求めたことなどの何かしらを掴めるかもしれないと書き始めたこの夢の話でしたが、

朝少し書いたところで時間がなくなり、夜に続きを書くことになったのですが、結局ほとんど忘れてしまっていました。

 

内容は朝に回想したこともあって何となく覚えていましたが、心的な感覚がほとんど残っていませんで、なかなか描写するための話軸を掴むことができませんでした。

 さすが夢といったところです。

 

 きっとこれは夢占いにでもかけた方がいい話なのでしょうが、内容の断片から自分なりに分析を試みてみますよ。

 

安楽死に象徴される内的な意識とは何だろう

安楽死や自分の死にまつわる夢は多分、今の自分の破壊、生まれ変わりたいという願望のように思えます。

 

ですが、今回の場合それを自ら選ぶというところが強烈なわけであり、そこにはさらに一つ上の死への意識があるように感じられます。

夢なわけですからその夢の中でわざわざ自分で死を選択する必要はなく、既に設定で最初から安楽死の薬を飲むことになっている方が自然なのです。

 

さらに来世の予感から前世の記憶まで備わっていて、それは今と何ら変わりのない様相であり、単に今の自分を破壊し新しい自分になりたいと願ってのことではないように思えます。

 

 

んー

退屈さを表現していたのでしょうか、

前世も来世も変わらない、どこまで行っても今と変わらないことから人生に退屈さを感じてしまっているのでしょうか。

 

あるいは死ぬことには興味があるが結局は生きている状態に未練があるのか。

 

何かがいやで死にたいわけではなく、死ぬと人はどうなるのだろうという興味があり、それを実行しようとするが、結局は同じ世界が始まってしまうのだろうという失望、

あるいは同じことが起こるというマンネリの安心感や、なんだかんだ同じ状態であって欲しいという願望があるのだろうか。

 

あるいは自分という存在を残しつつ、生まれ変わって何かしら一新された自分で今までの人たちの前に現れたいのだろうか。

 

たとえ夢でも自分を離れるのは難しい

色々と考えましたが、一つ言えそうなことは己という意識に縛られているということですね。

夢の中で死のうが生きようが結局は自分からの視点しか獲得できないということです。

意識は己と共にあり。

 

でも、

結局は私は死にませんでした。

 

夢で死んだらどうなるのだろう。

考えたら経験したことがないような気がします。

 

 

 

問題から自由でいられるために人は考える。

とある問題から自由でいるためにそれについて考える

 

ある悩み事があり、その悩み事について考えている間はその問題からは自由である。

 

大学の文学部の存在意義について語った大阪大学教授「金水 敏」さんの考え方より、私の解釈を交えて。

 

その考えることをサポートする役割として文学はあり、貢献できるはず。

そのために文学部は決して不必要な学部ではないのである。

そのような話の流れ。

実社会においてなかなか役に立たない文学部は無くてもいいんじゃないかという世の風潮に対抗する意見。

 

知識人の「山田五郎」さんの解釈の一つとして

「死にたいと考える人がいたとして、その死について考えている間は、ある意味その死からは自由であり、考えなくなったとき、その問題に捕まり飲み込まれてしまう」

(2017/07 荒川強啓デイキャッチ、ボイスのコーナーより。)

 

考えることにより問題を対象化、客体化させる

 人生の岐路に立たされたとき、それを有効に利用することができる。

 

考えても簡単に答えは見つからない問題も多いでしょう。しかし

その問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。

 

(金水 敏さんの言葉より。)

 

問題(困難)の例として

恋人にふられる、仕事に行き詰まる、親との不和、配偶者との不和、子供との不和

親しき人との死別、つまらない老後、自らの死。

等々をあげています。

 

 

 人間に与えられた究極の自由、考えを巡らせること、巡らせられること

考えることでその問題から「自由」でいられる。それは人間の究極の「自由」

なんとなく元気になれそうなお言葉。

ありがたい。

でも私的には自由の解釈が難しいところ。

 

ここでは二つ自由という言葉が出てきてます。

この二つの自由は少し意味合い、段階が違いそうですよね。

人は自由になれる自由を持っている。みたいな。

 

これを語った当人も稚拙な文章になってしまったと謙遜しておられます。

この辺りの曖昧さを自分で指摘したのではないかと考えられます。

でも生きるための何かしらのヒントとして有効に機能する言葉ではないでしょうか。

 

なので適当にいじくり回してみますよ。

 

人間は本当に自由を求めているのだろうか

自由という言葉のマジック

「自由」という言い回しには心をグッと掴まれますよね。

ポジティブな表現の一つになるでしょう。

「あなたは自由なんです」などと言われたらグラっときちゃう人もいますよね。

 

元気になれる言葉として自由は有効に働きます。

 

実際に苦難に直面しているとき、その苦難から自由になれることはとてもいいことであることには間違いありません。

自由が良い事として機能しています。

この場合の自由は簡単ですね。

窮屈なものからの解放を意味します。心地がいいです。

 

この自由は先ほどの言葉の一つの自由の意味になります。

考えることでその問題から「自由」でいられる。それは人間の究極の自由

 

ここでは多分問題を抽象化することを

自由という言葉を使っていると取ることができそうですね。

抽象化とは簡単に言うと「一歩引いた視点で見る」という感じ。

 

抽象化を自由というポジティブでわかりやすい言葉で表したということになりますね。

 

親しい人が死んだとき、どうして人は死ぬのだろうなどと考えを巡らせていれば、

親しい人の死に引き摺り込まれ、自分の元気が損なわれることを避けることができます。

「なんで死んじゃったのよ」「なんであなたが死ななきゃならなかったのよと」

と堂々巡りの思考に入っていくことを防ぐことができます。

 

考えることで親しい人の死という苦難から自由になれるということですね。

そして文学的な力がそれを手助けしてくれるということです。

 

 

ただ自由にはレベルがあると私は思うのです。

先ほどの言葉のふたつ目の自由は高いレベルの自由ということになります。

考えることでその問題から自由でいられる。それは人間の究極の「自由」

 

人間は本当に究極の自由を求めているのだろうか

この問いに関する結論として

「人間は究極の自由は求めていない」になります。

 

人は多少のストレスや縛りやルールがあってやっとその対象を楽しむことができます。

絶対に負けない野球チームがあったとして、そこのファンには楽しみはないでしょう。

 

生きる場合においても同様、何かしらの縛りやルールがなければ、うまく自分の存在を成立させることができません。

幸せとはこうあるべきだという、形式がなければ生きる方向性を見いだすことができませんし、

やってはいけないことがなければ、何をすべきかわからなくなります。

 

ちょとした不自由があり、ある程度の自由があればそれで丁度良いということになります。

 

決められた形式に疑問を抱き、考える質を上げてしまうと人は生きることが楽しくなくなってしまいます。

なのである段階からは考えません。問題化しないということです。

考える質を上げることはさらなる自由を目指すことになります。

その自由は必要ないということになります。

 

「家庭を築き、子供を育てることがなぜ幸せなのだろう」

「そもそもなぜ人は幸せにならなければならないのだろう」

「なぜ生物は子孫を繁栄させなければならないのだろう」

「なぜ自分が存在するのだろう」

などなど。

 

考えなくなる怖さ

 

簡単に答えの出せる問いから、

「自分とはなんだろう」などの決して答えの出ない問いがあります。

 

「自分とはなんだろう」と考えている間は自分という存在からは自由になる

ということになりますね。(余談)

 

ここで

簡単な問いをレベル1

答えの出ない問いをレベル10

とします。

 

適度な丁度良い自由を獲得するための問いをレベル7ぐらいだとしたとき、

近頃はこの数値が下がってきているように感じます。

一昔は7だったが今では5になっているような感じで。

標準値が下がってきてはいないだろうかと感じます。

 

 

それは昔と比べて今の時代は退屈さがなくなったからじゃないかと考えられます。

人は退屈さを感じたとき、レベル数値の高い自問自答のような問いを思い浮かべるのです。

 

文明の発達により、エンターテイメントのレベルが上がり、人々は日常の退屈さからどんどんと解放されていますね。

 

エンターテイメントが豊富にあり、さらに手軽に楽しめることによって人は退屈性を失い、

自分とはなんだろうなどという疑問を抱いている暇がなくなってしまいます。

そのような疑問は愚問となってしまうのです。 

そんな答えのないことをうだうだ考えるより、楽しいことなんてたくさんあるしそれをやってればいいんだよ。と。

 

そのようにして人は人についてを考えることを放棄していっています。

 でも一方で楽しければ別にそれで良いじゃんとも思いますよね。

一生楽しければそれでいいじゃないかと。 

 

しかしその先に見えるのは人間の動物化のような気がします。

 悪知恵の働く人たちに簡単にコントロールされてしまう人間になってしまいそうな気がします。

考えることをしなくなってますからね。

数値がどんどん下がっていきます。

すると結局はエンターテイメントの質も落ちますね。

 

あるいはそうやって文明は滅びるのかもしれませんね。

 

考えることの究極の自由

人間に与えられた究極の自由とは、人間の尊厳のことを言っているような気がします。

答えの出ない問いであっても、他に楽しいことがあっても、

不毛なことであっても考えることで人間の質を落とさないようにしていくことができるのかもしれません。

 

考えることでいろいろな問題から意識だけも自由になり、

問題に巻き込まれ人間性が失われないように距離をとっている、ということになるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

スポイルについて思う。

沖縄の西原町にある上原高台公園からの見晴らし

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スポイルについて思う

2017年7月のこと。

最近気の強い女性議員を見ていてスポイルというワードが頭に思い浮かびました。

豊田真由子」「上西小百合」・・・

彼女たちはスポイルされた人なのではないかとふと思ったわけです。

 

彼女たちとスポイル(されたこと)が関係があるかわからないけど、とにかくスポイルというワードが思い浮かんだのでちょっと思いをめぐらせてみましたよ。

 

というのも、

たまたま村上春樹の「回転木馬のデットヒート」という変わった短編集を読んでいて、

その中の「今は亡き女王のための」という作品に、スポイルされた女性が出てきまして、

その女王の感じと、今回の女性議員たちの感じがなんとなくリンクしてしまい、

それが今回のフックになって私はスポイルに釣られたということになります。

 

スポイルとは何か

spoil』=台無しにすること、ダメにすること、人間をダメにすること。

 

特に、「甘やかして人をダメにする」というような感じで使われることが多い言葉になりますね。

「親が子をスポイルしダメにする」など。

 

甘やかすだけではなく厳しくしすぎた場合も「スポイルされた」が当てはまるようですよ。これについては追々。

 

でも難しいですね。

愛情を注がれた子供は良い子供になりそうですし、行ってもワガママな性格になってしまうだけに感じますが、

「人間をダメにする」ほどのものではないように感じますよね。

 

「甘やかしてダメにする」というよりは、ワガママな人になってしまうがしっくりきますよね。

ワガママさは確かに迷惑ですが・・・ダメにするとは強烈。

 

でもやはり「スポイルされる」ことは「ワガママになる」というわかりやすい性格の種類ではないようですよ。

もちろんワガママもスポイルされた内に含まれるのかもしれませんけど。

もっと深い意味があるようです。

 

スポイルはただのワガママではない

ただのワガママな人ならきっとこんな感じになります。

 

(周りの反応)

「あの子はワガママで一緒にいるとストレスだから関わらないようにしよう」

「うん、なんか自分のことしか考えていないからいやー」

 

(ワガママな人)

「自分はワガママなんだな、直さなきゃダメかも」

あるいは

「ワガママな部分はあるかもしれないけど、そもそもそっちと私は合わないのよ」

と強気にでる。とか、

「ワガママなものはしょうがないのよ」と開き直る

とか

「なんで私嫌われているんだろう」となぜ嫌われているのか考えることができない。

 

あるいは嫌われていることに全く気がつかない場合もあるかもしれませんね。

 

などのような反応になります。(一例)

 

 

 

でもスポイルされた人は違います。

 

(周りの反応)

「あなたはワガママだからイヤ!」

「あなたといるとなんだか疲れるわ」

 

(スポイルされた人)

「迷惑かけてごめん、私って性格悪いのかな」深刻な顔をします。

「でもね、きっと私ってこうなんだと思う(・・・)」

 

(・・・)には相手の同情を誘う身の上話などが含まれます。

なぜ私はこのようにしてしまうかなどにまつわります。

(・・・)に含まれる話が天才的にうまいのです。

この(・・・)を聞いてしまえば大方の人は飲み込まれてしまいます。

 

そしてスポイルされた人(スポイルさん)は取り込んだ相手にこう言います。

「あなたは私の話を聞いてくれるとてもいい人、あなたがいて私は救われる、ありがとう」

 

言われた方は、逆に批判してしまったことに罪悪感を感じてしまったり、感謝されることで気分がよくなってしてしまいます。

ものすごく自尊心が高まるわけですね。

自分が高みに上がったような気分にもなったりします。

 

スポイルさんは綺麗であり、有能な人が多いようなので、その人からの承認をもらえるという行為は気持ちよく、それは麻薬的に作用するのでしょうね。

 

さらには

「自分がいなきゃこの子はダメなのかも」と思うにいたってしまう場合もあります。

怖いですよ。

 

そしてあなたはしばらくスポイルさんの味方でいるわけですね。

それからまた徐々にスポイルさんにエネルギーを奪われていくことになります。

取り込まれた人は理不尽な目に合わされながらも、神から与えられた使命かのように、しばらくはスポイルさんの味方となり、ある種のエネルギーを与え続けることになります。

自分を犠牲にしても何かとスポイルさんを助けるわけです。

 

あなたはだんだんとすり潰され、「あれ、おかしいぞ」と思う頃にはまた天才的な言い訳で彼女たちの世界に巻き込まれてしまいます。

 

なぜスポイルされた人は言い訳話が天才的にうまいのか

ここからは持論、抽象的ですがご勘弁を。

 

スポイルされた人の注目させる力 

まず彼ら彼女らには注目させる力があります。

容姿であったり、仕草であったり、言葉であったり。

 

言葉に関しては相手の心に刺さるワードをたくさん知っています。

褒めればこちらへ向くなと思えば相手を褒めますし、

批判し怒らせればこちらへ意識が向くはずと思えば批判します。

いずれもどの言葉を使えばこちらを意識するのかがわかっています。

 

良い気持ちにしようが、イヤな気持ちにしようが、

とにかくこちらを意識させればいいのです。

 

意識させた瞬間、そこはもうスポイルさんのテリトリーです。

アリ地獄みたいなものです。

 

 アリ地獄に引き込めばそこから相手は出られませんし、最後は食べてしまいます。

 

 この絶対に抜けられないアリ地獄を彼女たちは成長の過程で構築してしまっています。

 

スポイルさんたちの「自己完結的な思考」

アリ地獄からイメージを変えます。

「自己完結型の輪、ループ」をスポイルさんたちは持っています。

(私が個人的に定義しています^^;)

 

アリ地獄のテリトリーを自己完結のループとします。

(ループは思考回路のこと)

そのループに入ってしまうと抜けられないということです。

 

「自己完結型」とは他で使われている「個人主義者」とは違う概念になります。

(良い言葉が見つかりませんでしたのでとりあえず)

 

自分が関わる全ての理屈において、自分独自の論理体系を持っています。

それはある種の結論へと導かれるように作られた体係になります。

イメージ的には輪投げのような輪っかを私は想像しています。

 

自分本位の論理体系、いわば屁理屈ですね。

この屁理屈が完璧に自己完結してしまっています。

 

人は誰しも少なからず自分本位の論理体系を持って生きています。

それがそれぞれの個性になります。

 

でも通常は自己完結などしていなくて、どこかに切れ目が入っています。

輪投げの輪は繋がっていないのです。

 

それはグニャっと輪の形を変えるための切れ目です。

他の論理を受け入れるための穴です。

この穴に他人の論理をつなぎ合わせて、場に応じて論理(ループ)を完結させます。

自分の考えとは全く別の結論へと到達することも多々出てきます。

 

あるいは、繋いだ挙句完結しない場合もあります。

意見がもつれ、衝突などを起こすということですがしょうがないことですね。

でもまあそのように試みます。

 

ですがスポイルさんは穴が空いていません。

形が全く変わらないのです。

自己完結の輪(ループ)です。

 

まず、相手の意識を自分へ向ける行為、それはこのループへ誘い込む行為になります。

そして相手が自分へ向いたあかつきには、そのループにあなたの輪の切れ目が繋がったということになります。

(意識が向くということは自分の輪を繋げるということになります)

 

スポイルさんのこのループは何があろうとも切れることはありません。

(繋がっているというのは絶対に切れないことを意味しています)

あなたがそれを切ろうとすればするほど、あなたの輪はスポイルさんの影響を受けて本来の形をどんどん失います。

いわゆる洗脳という状態です。

あなたの輪はスポイルさんの輪っかを強化するもう一つの別ルートになります。

 

イメージ的にはスポイルさんの「O」にあなたの「C」の穴がくっついて

より太い「O」に近く感じですかね。

対話の理想は「∞」です。

けどより「O」へ近づきます。

 

切れ目がないですから当然行き着く結論はいつも通り、

揺るがされることはありません。

 

この揺るがなさが言い訳の天才を作り出しています。

 

付け焼刃の論理ではなく、

人生をかけて作り上げた壮大な理論なのですよ。

 

繋がっているということは一応の説得力はあるのです。

 

追記

「自己のホメオスタシス」(宮台真司

このような言葉を耳にしたのですが、もしかするとこのOに似た概念ではないかなと思いましたので記録を。 

自己を維持するための強固な自動調整機能。

 

 切れ目のないループを強固にしてきたスポイルさんの人生

 

熟練工です。

まるで刀を強く続ける鍛冶職人。

 

ももしかしたら生まれながらの気質のようなものも影響しているかもしれませんね。

それプラス育てられ方。

 

 触らぬ神に祟りなし。スポイルさんは強い!

私たちはスポイルさんの輪っかは切れることはまずないことを

頭に入れておかなければなりません。

 

更生させようなどと考えてはいけません。

(身内はその限りではないかもしれませんけど)

 

関わらなくていいのなら、関わらない方が一番賢い過ごし方なのかもしれません。

自分がすり潰されて行くだけです。

 

でもそれがいいという人もいますから、そういう人は全然関わっていいと思います。

家来としての生き方もありです。

でも周り、特に身内の迷惑にならないように気をつける必要はあるかもしれません。

 

 

しかしここまで語っておいてなんだけど 

私、

スポイルについて詳しい定義や、多くのサンプルを持っているわけではありません。

なので色々間違っていたらごめんなさい。

悪い人格の一つとしてスポイルというワードを使って語ってきました。

でも人格に対する一つの考え方としてまあありえるものかなと思います。

 

もし、今あげた人格の定義に心理学的な名前があるなら教えてもらえたらなと思います!

 

一番はスポイルに関しての権威である村上春樹さんに教えてもらい。

 

 

 

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沖縄でトリコロールについて想う

トリコロールの不思議

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この三色の並びにオシャレを感じる。

なぜでしょう。

 

このカップはキャンドゥーの商品。

 

トリコロールとは

トリコロールとはフランス語では三色を表す。

 

通常の意味としては「青」「白」「赤」の三色の並びを表す。

あるいはこの並びであるフランスの国旗のことをいう。

 

青の部分を緑にしたのがイタリアの国旗

トリコローレと呼ばれる。

 

んー

私は青が好きだなぁ

イタリアには悪いけど、青がオシャレな感じがする。

今の所は。

 

青のイメージ

地球、空、海。まさによくここでアップする写真は青のイメージかな。

 

冷静さ、クール(寒さ)、深み。

 

ドビュッシーの月の光。

 

緑のイメージ 

地球の一部、自然、草木、黄緑(笑) 

 

寒くもなく暖かくもない中性的。

 

休息。深呼吸。

 

 

青であるトリコロールが緑のトリコローレよりオシャレだと感じる結論

 

青には緊まりを感じるからかもしれない。

(なぜ締りがいいのだろう)

 

緑は中性的のイメージからほわっとした感覚。

青は寒さや深さといった突き詰めた感覚。

 

青は暑いイメージのと簡単に対をなせる、対極にあることで生まれるバランス性。

「緑と赤」よりも「青と赤」の方がある種の意味合いを刺激する。

 

色の組み合わせによる心理効果。

トリコローレも味方を変えれば結構メタフォリカル。

 

やはりオシャレな国は違うね。

 

 

日本の国旗は・・・

 

 

沖縄 中城村の風景

 

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こんなところに住んでみたいけど土砂崩れが怖いよね。

最近の大雨は怖かった。

 

 

沖縄の天気!空模様。プライドの問題がつきまとう

2017/07/20の沖縄の天気は快晴。気温34度

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米軍基地の間の道路。

普天間基地のあたり。

 

プライドが高いと困るよ!

予期せぬ間違いにご注意を!

と自分に言い聞かせる今日この頃。

 

絶対に正しいと思ったことでも間違いがあったりするから怖い。

 

これは絶対に正しいんだと確信してるから自信満々で、意見を主張しちゃうよ。

でも別の人に間違ってませんかと指摘を受けたりする。

 

しかしこっちとしては間違いのかけらも見つけられない完全に正当な論。

なので「ふっ」と鼻で笑って貴方はバカなの?と言っちゃったりするよ。

 

ちなみに私の話じゃないよ٩( 'ω' )و

 

見た話。

 

思い込みは怖い!プライドが高いとなおさらヤバい

 

結局は主張は間違っていて、指摘されたことの方が真だったわけで、

その光景は見ていられないほど痛々しいものよね。

空気的に。

こっちまで恥ずかしくなってきて居ても立ってもいられません。

 

ここで頭を切り替えて「間違ってましたすみません」と言ってしまえば

まあお互いになんとなく収集はつくのかな。

でも鼻で笑ってバカなの?と言っちゃった手前それも厳しいか。

 

そこで次なる攻撃に入るわけなんだよね。

自分が間違えたのは、貴方の説明が悪いからだというような言い方だとか、

別の話を持ち出して、上塗りの形で失態を取り繕うとするとか。

 

下手に出ると調子にのる人!プライド怖い

私はこのようなケースを見かけるたびにぞっと身を震わせているから、

自分が何かを主張して、反論されたときには謙虚に対応することにしてるよ。

 

議論に差し支えない簡単なものであれば「確かにその考え方の方があってるかもしれない」とか言っちゃったりしてね。

 

でも逆に指摘する側や、訊ねる側になったときにその傲慢な態度を取られることもたまにはあるよね。

 

それでも相手のプライドのことを考えて、下手に出るよ

「すみませんが、これは正しい・の・で・しょう・か。とか、もう一回具体的に教えていただけないでしょうか」とかやんわりとね。

 

でも気がついてくれるといいのだけど、最後まで気がつかない。

その上さらに、呆れた感じで同じ説明で対応さちゃうよね。

「あーバカに説明するのは疲れるぜ」って感じでね。

 

このような人は説明の仕方を変えようとしないという特徴があるかも。

 

説明力のなかった自分が悪いかも!と思えば説明を変化させるよね。

そして自分の間違いや矛盾に気がついたりする。

そもそもそういう人には「間違ってませんか?」とはっきり言ってもちゃんと検証してくれるけどね。

 

 

もうラチがあかないから、別の人を読んでもらうか、一旦終わって別のアプローチを図るかだね。

私は。

さすがに大きく損害を被ることに関しては折れはしないけどさ。

 

 

沖縄県 恩納村 大学院大学からの帰り道(イメージ)

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絶対ということはない!かもしれない

 

「かもしれない」というところがみそ!

「絶対ということはない」はパラドクス的文章だよ。

 

絶対にどこかに穴があるかもしれないと思った方が無難だよね。

 

 

天才数学者や物理学者だって彼らの発表する論文が通らないことだってあるんだから。

自分では、論理の抜けや、矛盾した論証に気がつかない論理の流れってあるのよね。

自分法則みたいな感じかな。

 

外から指摘されて初めて気がつく思いもよらぬ自分の矛盾点。