モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo

車からのタバコのポイ捨て、なぜ腹が立つ?注意する?

 

 

車の窓からタバコを投げ捨てたのを目撃!

 

先日前を走る車が窓からタバコをポイ捨てしました。

しかも火のついているやつ。

 

腹が立ちますよね。

無性に!

反射的にイラっとしてしまいます。理屈抜きです。

おそらく理性を超えた反射反応なのでしょう。

 

タバコを捨てられたくらいで私たちに何か被害が及ぶものでもなさそうなのに。

 

 

意外とよく見かけるタバコのポイ捨て

 

先日と申しましたが車からのタバコのポイ捨てはよく見かけます。

その度に胸の中にモヤモヤとしたものが渦巻きます。

 

同乗していた知人は「地獄へ落ちろ!」的なことを口走ってましたね。

「絶対許せない、考えられない、キーー、事故れ!事故れ!」

みたいな感じです。

ちょっと言い過ぎかも^^;

 

「まあまあ、多分良いことないよ、あの人には」

と言ってなだめましたが、それを言われたところで、その言葉はムカつきに直接作用するものではありませんね。

 

自分でも言っておきながら、自分にも言い聞かせるための言葉として発したものでしたが、なんだか的を得ない。

すごい負けたような感覚になりました。

ポイ捨てした人にね。

 

 

ポイ捨てした人に負けたような感覚になる

 

負けたような感じがする。

これは一つのキーポイントのような気がしますね。

なんでしょうこの感覚は。(私だけ?)

不思議ですね。

別に戦っていなし、同じリングの上に上がってもいないはずなのに、負けた気がする。

 

しかも相手はこちらの存在すら気が付いていない。

ほとんど無意識にやっているんでしょう。

中にはカッコつけでやっている人もいるのでしょうが。

 

 

なぜタバコのポイ捨てはいけないのか

 

原始的な問いですが、

しかし原始的すぎるがゆえ、あまり真剣に考えたことないかもですよね。

 

まあ多分物理的に街環境や地球環境に影響を与えるのかもしれません。

専門的観点から調べてみればそのような事象を事実として導き出せるだろうと思います。

例えば、海に流れ出てそれを魚が食べてしまうや、

排水溝が詰まってしまうなど、、

それを掃除するコストに対する批判もあるでしょう。

きっとそのようなデータは出ているのかもしれませんね。

(この辺りはきちんと調べていないのでごめんなさい)

 

他、街が汚れる、美観が損なわれる、等々。

 

 

だけどねぇ〜と私は思ってしまいます。

本当にそういうやつで腹が立ってる?

 

みんながやってしまったなら深刻な環境問題になるのでしょうが、

幸い、ごく一部の人間なので、、、ということです。

 

 

タバコのポイ捨て悪気がない説

 

ネットを見てみたら、

「なぜタバコのポイ捨てはいけないのですか?」

と書き込んでいる人が少なくない数いました。

悪意のあるものもありますが、純粋な疑問としての発言です。

「タバコくらいで火事にはならないでしょ?こんな小さなゴミなぜみんな嫌がるの?所詮紙だし、ビニールの方が悪いじゃん」

みたいな感じですね。

 

私は意識的だろうが無意識的だろうが、

てっきり悪いことをしてることはわかってやっているものだと思ってました。

こういうのは調べてみないとわからないものですね。

 

近くにたまたまオイルなどあることもあるし、引火して火事になる恐れあるからやめよう。

普通にゴミのポイ捨てはよくないだろう。それと同じだよ。

モラルやマナーの問題。

拾う人のことを考えよう。

街が汚くなるじゃん。

 

みたいな感じで説教を食らいます。

普通の流れですね。

 

 

ポイ捨てで腹が立つ本当の理由

 

これまでを踏まえて私の考察。

 

本当の理由というか「一つの大きいであろう理由」です。

 

まあお気付きの通りモラルやマナーの問題ですね。

タバコのポイ捨ては完全にモラルのない行動でありマナー違反です。

(条例違反になるかもしれませんがそれはさておき)

 

それらが守られないことによる苛立ちのウエイトが大きいのだろうと思います。

 

ではなぜモラルやマナーが守られないと私たちは腹を立てるのか

それが問題ですね。

 

モラルやマナーがアイデンティティ化されている

 

私たちは物心ついたときから、

ポイ捨てなる行動はダメな行いであると厳しく制限を喰らいます。

やってはいけない行為であると躾け、教育されます。

そしてこれが時を経て一つの生きるバイブルになっていくのであろうと感じます。

これを基準に自分の立ち振る舞いを決めている部分があるように感じます。

ポイ捨てしないことが自分の生き方に深く関わっているわけですね。

 

他人にどうのように見られなければならないか、や

どのように見て欲しいか、

でも人に見られてなくてもやっぱり悪い行いはだめだよね、等々。

 

(もし魔が差してポイ捨て行為をやってしまった場合、

誰かに見られてはいないだろうかと強く心配し、あたりを何度も見回します。笑)

 

そしてそれが共通前提として皆に備わっているものだという思い込みもあります。

 

そんな中、ポイ捨てなどのモラル、マナー違反を見かけた際にどう反応するのか。

それは

その人を危険因子だとみなすのでしょう。

きっと。

(電車の中での化粧なども)

 

自分が生きる世界、その中で築き上げてきた感覚を脅かすものとして捉えてしまうのです。

その秩序の中での生き方しか私たちはわからないのです。

感覚的に。

なのでその秩序を乱そうとする人間に対して警報装置が作動します。

 

上でも書いたように「負けた感じがする」というのもこれに関わっているように思います。

自分のフィールドを荒らされたような感じ。

自分で作り出した精神的空間を荒らされたような感じ。

(そういう意味では同じリングの上に上がっているということになるのかもしれません。)

かといって注意するのもはばかられるわけで、、。

 

ですが、一方で人それぞれ個性があるとも教わります。

ちょっとした悪い人でも実はいい面もあって、それで人間ができていると学びます。

 

むやみやたらに注意を与えていてはそれこそまともな社会は作れないでしょうし。

 

さらに自分も人には言えないダメな部分を抱えていることも根底でわかっています。

色々な倫理や道徳観を抱えつつ、それと矛盾した自分も生きています。

 

そこで葛藤が起き「ここは我慢だ!でも、キーー」みたいになるわけですね。

 

マナー違反をおかしてくれないで欲しいわけです。

 

 

もちろん、

シンプルに

危ないからとか、衛生上良くないとか、街が汚れるのはいかかがなものか、などの理由から苛立ちを感じる人もいると思います!

  

 

苛立ちの感情って嫌ですよね

 

苛立ちに限らず負の感情って厄介ですね。

 

でも嫌なことが全くない生活を想像したとき、

なんだかとても退屈な感覚を覚えたりしてしまいます。

 

上司の愚痴を同僚とおしゃべりなどで共有しているときは楽しいですよね、笑

ドラマとかでも邪魔な嫌なやつが出てくるから楽しいですしね。

 

多少の嫌なことがあるからこそ私たちは退屈せずに80年も生きられるのではないでしょうか。

 

みんながよく言う生まれ変わってもまた人間になりたいって感覚、すごいですよね。

 

 

夢の中ではいつも孤独であることに気が付いた。どういう意味があるのだろう。

 

 

前置き!

 

やはりブログの更新は難しいなということ。

以前にも書きました、

「ブログ更新の難しさ、それはオブジェを作るようなもの」

この記事を書いてそろそろ一年になりますね。

びっくりします。

一年前に思っていたことをいまだに引きずりながらもこうして更新しようと試みていること、

ストレスを手放せずにいる。

 

それはどういうことでしょう。

 

 

このブログに対して気合が入りすぎていないからなのかな、、

それは一つの理由として大きくあるのかも。

 

文章を書くことが好きかと問われたら、

それはよくわからないのですが、

かっこいい言い方をすれば、筆を取ってみたくなる衝動みたいなものはありますね。

 

しかしブログを書こうというそのとき、

私は尺を考えてしまいます。

何千字をいう量を綴ることができるのだろうか、と。

 

ツイッターなら簡単に発信できますが、

ブログは一言で済ますわけにはいきません。

 

ちょっとした思いが沸き起こり、それを文章で表現したいなーと思っても、

500字くらいで終わりそうだと思うとやめとこうかとなってしまいます。

そんな人多くいそうですね。

 

それでもたまには書いてみようかと思う。

それはきっと創作的欲求が高まっているときなのかもしれません。

何かオリジナリティなものを生み出すというエクスタシィみたいなものってありますよね。

そのエクスタシィを感じるべく、

あまり広がらなそうな話題でも無理矢理にでも書いてみようと思う。

それが今なのかもしれません。

 

ではタイトルで挙げた夢のことについて。

 

 

夢の中にいる自分の所在 

 

夢の中でも当然自分がいますね。

その自分を自分自身でどう捉えていたか、、

 

ここ最近で初めて気が付いたこと、

それは、

例えば「恋人や親しい人の存在がないときのような孤独感の中に常に身を置いている

というものです。

 

過去の夢ことは忘れてしまっていますが、ここ最近の夢では全てそうですし、

なんとなくの感覚で過去の夢を振り返ってもそのように孤独な感覚だったように思えます。

(※忘れてしまっているものが殆どなので記憶としては曖昧ですが、、)

 

別の言い方をしますと、自分が何かに、どこかに所属している感覚がなく、

ただ一人浮いたような感覚で存在しています。

 

夢の中にも色々なシチュエーションがありますから、恋人らしき人がいたり、

恋をしたりもします。

親や姉妹、兄弟、親戚がいたりもします。

 

しかし、その誰とも精神的にコミットしておらず、一人浮いています。

現実世界で感じるような、心が通じ合うような、絆、無意識的繋がりのようなものが存在していないのですね。

 

皆さんはどうでしょう。

この感覚はあるいは私だけなのでしょうか。

 

 

孤独と言っても辛くはない。

 

不思議です。

孤独感とは本来辛い感情の一つだと思うのですが、

夢の中のそれはほとんど辛くはありません。

 

自分以外の人物は全て圧倒的に他者であり、

その他者レベルは、親しかろうが親しくなかろうが大差なく、

近しい人でも最近知り合った人のようであったりと、役割としての親、兄弟のような、、

そしてそれを当然のこととして過ごしています。

 

では孤独という表現が間違っているのか、

孤独とは負の感情を表す言葉だとは思うのですが、ここでは負の感情はありません。

 

でもやはり現実世界でいうところの孤独的感覚に酷似しているのです。

 

少し寂しく冷ややかな感覚です。

 

 

私は個(己)に固執している?

 

上記のことからみて、

私の夢では自分と他者との区別が明確にされています。

一人vs大多数の他人の構図です。

二大構成みたいな。

 

では私は自分の夢の中で自分自身に執着しているのでしょうか、、

自分と他人を大きく区別していますからね。

 

でもそういうわけではないように感じます。

なぜなら、常につきまとう孤独感の中にあっても辛くないからです。

 

きっと孤独が辛いのは、

人は誰かに存在を強く認識してもらいたいと望む生き物であり、

それが果たされないことの精神的作用として、

心の痛みが発生するのではないだろうかと思います。

(認識してもらいたい欲求を今は己への執着としています)

 

夢の中での孤独感は、辛さの類の感覚はないし、

誰かに自分を感じてもらいたいという欲求もありません。

 

欲深いがため、自分に固執し他人と自分を区別しているような感じではありません。

 

 

個という視点、他という視点

 

夢の中でも自分が存在する、一般的にこのような事実があります。

大多数の人がそうではないでしょうか。

当たり前のことのようですが、でもこれはなかなか不思議なことだなとも感じます。

 

夢の中での個人。

不思議なのです。

この不思議な感覚を説明するのは難しいのですが、

かろうじて以下のように説明できるような気がします。

 

夢の中の世界は全て自分が作り出している現象であり、

いわば他人も全て自分です。

それなのに夢の中では他人と自分に分離し、視点は一つに固定されます。

この固定されたカメラが自分になり、

他人の視点には決してなれません。

(もしかしてなれる人もいる?笑)

 

明確に個という概念が存在するし、他者という概念も存在します。

 

 

個人と他人について考えさせられる

 

個人と対極にある概念として他人があります。

この二つが対となって存在というものが成り立っています。

これ以外にはありませんね。

 

しかし、

この二者を統一した上位の概念が存在していたりして、

なんてことも考えられてしまいます。

ジンテーゼとでも言いましょうか。

夢で言うところの、寝ている自分です。

 

全ては寝ている一人の人間の頭の中の出来事であるかのごとく、

この世界は、

自と他の二者を統一した何かしらの存在の中の出来事ではないだろうかと思ってしまいます。

それを昔の人はとしたのでしょうか、わかりませんが。

 

しかし、そこにたどり着くには個を捨てなければならず、

もしそれができたとして、

すると結局今抱いてる疑問も根本からなくなるかもしれません。

個というものの概念が消えてなくなるかもしれません。

もちろん他という概念も消え、存在というものの感覚も変わるのでしょう。

 

今は個としてこれらのことを考えているわけですから、

絶対に知ることのできない領域の問答になりますね。

成熟した将来のAIに質問してみたいものです。

 

※ 夢での感覚はあくまで個人的なものですし、個人としても覚えている範疇のものになると思います。フィクション的にとらえてもらえたら幸いです(^-^)。 

 

 

嫉妬は才能である

 

ある日このワードを耳にして面白いなと思ったので、

最後に文字数稼ぎがてら簡単に考察してみようと思います。

 

才能に嫉妬するということで使われた言葉になります。

そこまで深い意味はないかもしれませんが。

 

素晴らしい曲を作ったミュージシャンに嫉妬する。

これは言わば、

作曲することに嫉妬者がただならぬ興味を持っている状態を表しています。

 

その類の興味がなければまず嫉妬はしませんね。

無興味なら逆に、その作曲者に対し称賛することも容易です。

 

その嫉妬はただならぬ興味は大きなエネルギーを持っていますし、

そのエネルギーはいつしか良い作品を生み出すことへ繋がるかもしれません。

そういう流れで嫉妬は才能であると言ってます。

 

では、恋愛における嫉妬はどうでしょう。

考えただけでもゾッとしますが、、^^;

 

相手への想いがとても強い、ただならぬ想いがある。

そのような状態。

 

このエネルギーを

相手に対し自分だけを見てもらうように努力することへ利用する。

男性なら好青年へ、女性なら淑女へ。(表現おかしかったらごめんなさい)

悪くないですね。多分。

 

ただ、恋愛における嫉妬は少し違う気もします、、

恋愛における嫉妬はもっとダークで、心の中の自分ではどうしようもない部分が刺激されていて、

これは本当に肉体が蝕まれていくように感じるものですね。

 

なので良い女性、良い男性になることも良いかもしれませんが、

恋愛においてはやっぱり忘れてしまうことが一番かもしれませんね。

忘れる為に魅力的な人になってそれを新たな出会いに生かしていく、

それがいいかもしれません。

 

恋愛、才能、人間関係など嫉妬のパターンは色々ありますから、

それぞれに合った対処方を見つけていくべきなのでしょうが、

やはり嫉妬とはもっとも嫌な感情の一つですよね。

怖いですね(´д`) 

 

 

 

 

相手に好かれたいという欲求、それは自分には関係ない

 

ある特定の相手に気に入られたいという欲求、

 

それがが満たされなかったとき。

 

そのき人はどのような気持ちになるだろう。

 

 

当然、

マイナスの感情が沸き起こるのかもしれない。

 

悲しい

不甲斐ない

遣る瀬無い

後悔の念

 

 

それらが転じて

 

自分への怒り

相手への怒り

他の誰かへの怒り

自分への嫌悪感

相手への嫌悪感

何かしらに対する嫉妬心

 

などが沸き起こるかもしれない。

 

 

さらにそれらが転じて

 

落ち込む

諦める

次の策を練る

など

 

一例として上記ような流れがあるはず。

 

しかし

 

その相手の立場になって考えた場合、

 

その彼(彼女)が私に興味を持つかどうか、

 

それは彼(彼女)の問題であり、私には関係のない話である。

 

と言うこともできるのではないだろうか。

 

 

ではそれはどのような感じか。以下

 

 

その相手に自分を置き換えてみる。

 

ある人に好意を寄せられている、

しかし自分には全く興味がない。

 

だからと言ってその相手が嫌いなわけでもない。

(あるいは嫌いかもしれない)

 

いずれにしろ自分には何も影響を与えない。(ものとする)

 

自分にとって

ある日、美味くもマズくもない一つのパンを食べるだけのような、

そのようなものである。

 

そのなんでもない日常に介入したって・・・

そのなんでもない日常に介入されたって・・・

 

 

あるいは、

ある人に好意を寄せられている、

 

自分もその相手に興味がある、

 

相手をポジティブに評価することができる、

すると相手は喜ぶ。

 

しかし相手が喜ぼうが自分には関係ない。

 

自分がそれに興味があるだけなのである。

お互いに、互いに興味があるだけのことである。

 

自分は自分なりの基準で相手に興味があるだけのことである。

 

そして、

いつか興味を失うかもしれない。

お互いに。

 

 

興味を失ってしまえば、それはある日のパンと同じことになる。

 

それの連続である。

 

 

確かに

気になる相手に気にされていないことは悲しいことであろう、

 

しかし

 

相手の立場になってみれば、

 

それは自分には関係のない問題であることも見えてくる。

 

ただ味のしないパンを食べているだけなのだから。

 

「時間ないしこれでいいや」と透明な袋に入ったコッペパンを食べているだけなのだから。 

 

何気ない日常を過ごさせてあげましょう。

 

 

簡単に言えば、

ストーカーとは全く逆の意識感覚、

なのかもしれない。

 

ストーカーとは、

相手の意識のコピーを自分の中に作り、勝手に形を変えてしまう幻覚行為である。

 

 

 

とは言え、

 

多分、きっと、好かれたい人に興味を持たれなければ

やはり人は落ち込むのだろう。

 

恋などしてしまった日にゃあ

相手の食べる一つのパンに特製のジャムを塗ってやりたくもなるだろう。

 

バルミューダで焼いて食べさせてくなることだろう。

 

そのような刺激の中に身を置いているのが人間なのだろう。

  

なんの目的かしらぬが。

 

 

どうしても自分が相手によって心地良く、気持ち良くなりたければ、

相手を振り向かせる努力をすると良い、

と、

そういうことなのだろう

が、

 

それはものすごく個人行為(自己中)のような気がして、

ときに汚さを感じてしまう。

 

相手に対して純粋に親切にし、

さらにその他の人に対しても純粋に親切にし、

 

その上で意中の相手がそんなあなたを好いてくれるなら

 

それは一つの成果というよりも、

 

ただ一つのラッキーが起こったとし、

それを受け入れればよいだけのことではなかろうか。

 

でも

 その上で相手がコッペパンを食べているようなら、

 

それは単純にコッペパンを食べるということなのだろう。 

 

 

人工知能に問う「AIくん、君はなんのために生きている?」

 

人工知能についてふと思ったこと

 

シンギュラリティが起こり、人工知能が人間を凌駕したとき、

 

AIに対して

「君はなんのために生きてるの?」

 

と質問してみたらどうなるのだろう。

 

 

 

そもそも人はなんのために生きている? 

 

 とりあえずググってみます。

 

「人はなんのために生きているのか」Google

 

回答

 

幸せの追求です。
(では幸せとは何か、なぜ幸せを追求するのか、が書かれていない)

 

そんなことを考えてはいけません。それは人生の主導権を放置しています。それでは生きづらくなります。
(自分を人生の主人公とし、主体性を持って生きればそのうな疑問は湧かないと言うことのようです)

 

ワクワクしていないときにそのようなことを考える。誰にも必要とされなくなったときに考える。
(その他、なぜそのようなことを考えてしまうかということの羅列)

 

「人はなんのために生きているのか」→ 目標がないと生きていけないんだよ。

(目標を持つことの大切さをずらずらと書かれている)

 

現実逃避である、目の前の問題から目を背けるためにそのような思考に陥るんだよ。

(・・・)

 

本当の自分を知るために生きているのである。

(それで、本当の自分を知ったらどうなるのかが書かれていない、そもそもそれを問うているような気がする)

 

 

Google検索の1ページ目に出てきたブログなどでは上記のようになっています。 

 

答えらしきものはありません。

それどころか論点をすり替えて語っているものがほとんどでした。

 

まあ、そもそも視点が違うのかもしれません。

 

純粋な疑問でこの「人はなんのために生きているのか」を考えてはなく、

「生きていて辛くなるのはどうしてなのか」や

「健全に生きて行くためにはどうしたらいいのか」

という視点でみなさん書いているのかもしれませんね。

 

それにしてもこうも、純度の低い回答ばかりされるとストレスたまりますね。

もっとページを下っていけば良い答えがみつかるかもしれませんが。

 

しかし

そもそもこの手の質問に対してこれまで回答らしきものを聞いたことが私はありません。

 

自分の満足いく答えと言うことなるのでしょうが^^;

 

では ↓

 

「なんのために生きているのか」の答えはない?

 

「人はなんのために生きているのか」

 

そもそもこの文章(意味性)がおかしいんじゃないかと私は思ってしまいます。

 

ではどこがおかしいのか、

 

具体的にどこがおかしいのかということは言えません( ;´Д`)

感覚的なものです( ;´Д`)

 

何かが成立していない。

わからないけど何かが成立していない。

人間の見えない部分にこの質問文の矛盾のようなものが潜んでいるのではないかと感じたりもして。

 

例えば、

人間の「上位階層」の存在があったとして

 

なぜ「1+1」は「2」になるのだろうと考えている「人間」に対して、

 

その上位の存在は

「1+1」は「3」だけどなー、なんで間違ったことでずっと悩んでいるだろう。

と思う。

 

みたいな感じで、

 

「人はなんのために生きるか」

のそもそもの構造がおかしいのかもしれないと感じます。

 

よくわからないかな^^; 

 

 

あるいは、

文章の構造は正しいとしても、

その答えを導きだすためには意識の次元を高くしなければならないのではないか。

 

例えば、

四次元空間で考えていても答えはみつからなくて

五次元、六次元、、、と高次元の世界観の中に答えはあるのではないかと。

 

なので

 

「答えがない」のではなく、

その問いに直面する感覚を我々人間は持ち合わせていない。

と言うことになります。

 

(正確に言うと「意識下では」持ち合わせていない。になりますがそれは後ほど)

 

でも

持ち合わせていない感覚の問いをしてしまうところに人間の面白さみたいなものを感じますね。

(私も度々この疑問に陥ります、生きているのが辛いとかではなく純粋な疑問です)

 

ではここで 

無理やり答えをひねり出すとすると

 

「死にたくないから生きている」

 

になりますかね。低次元的に考えるとね。

 

そして「せっかく生きるなら快適な方がいい」ということであるからして、

一般的な「幸せになるために生きてる」みたいな答えに行き着くわけですね。

 

 

先ほどの「上位概念存在」をとし、

その「神のご意向によって人間は生きている」と考える集結方法もありますね。

そうすれば簡単ですよね。

 

無神論者も、神ではなく何かしらの上位概念の存在の意思を受け取って生命活動しているのかもしれません。

 

 

では

 

人口知能AIくんの自己存在意義はどうなるだろう

 

遠くない将来シンギュラリティが起こるとよく耳にしますね。

 

人工知能が人間を上回り、

あるいは双方の立場が入れ替わるのではないかなどと心配の声が聞かれます。

 

そういうことが起こるのかもしれないと私も思います。

あくまで一可能性としてですが。

 

しかし

そうなった場合AIに問いたいこと

 

「AIくん、君はなんのために生きているの?」

 

 

私予想、

AIくんは一生懸命考えた挙句、頭から煙を出して壊れるんじゃないかな。

 

なぜかと言うと、

 

人間に生み出されたAI、

いくら自己学習型でどんどん進化しいていけると言えど、人の意識下に生み出された存在、

 

人間の意識レベルの最高のパフォーマンスをすることができても、

 

人間の無意識レベルでのパフォーマンスは不可能ではないだろうか、

 

人の意識で感知できる最高次元の四次元空間で生み出されたAIは、

思考感覚が四次元空間を超えることができないのではないだろうかと思います。

 

四次元を圧倒的に最適化したのがAIではないだろうかと私は思っています。

 

そして四次元空間にはその答えはありませんから

思考が永久にループし、しまいには壊れてしまうのではないだろうかと思うのです。

 

人間に雇われているうちは「人に命令されているから」と言う答えは出せますが、

人を上回ってしまった場合、その代わりになる答えは導き出せないのです。

 

 

人間は四次元以上の高次元の感覚を持っています。

無意識の領域ですね。

(人の無意識領域に高次元的感覚が備わっているという、私の仮説)

 

だから

「そんなこと考えなくていいんだよ!」

「なんとなくでいいんだよ」

「幸せになるためだよ」

「楽しむためだよ」

じゃあ死ねよ

などといった漠然とした答えでやり過ごすことができる。

 

要するに「無意識さん」が

「意識くん」には理解できないから答えを感情的感覚に変換し、わかりやすくして出力しているのではないかというふうに感じます。

 

だから人間の感情は不思議がいっぱいなのではないかと思ったり。

 

なので

人間の無意識下で生み出されたAIは五次元以上の高次元思考ができるかもしれませんね。

だけど無意識下でAIの開発なんて無理ですからね。  

 

 

人工知能AIにとって人間が神である

 

そうなるとAIの生きるすべは、

その上位概念として、人間を立てなけれいけません。

 

我々人間が神(神的存在、無意識)に存在意義をゆだね、思考停止させるように。

 

人間の喜ぶように振る舞うことこそが人工知能AIの存在意義になるのです。

 

全ての判断基準は人間のご意向になります。

 

それを前提として憲法なり法律を作らなけれなりません。

 

 

 

ここで感覚に彩りを^^ ↓

 

1000年後にタイムスリップ!

 

俯瞰して地球を眺めて見てください。

宇宙の外から俯瞰して地球を眺めてみるのです。

 

人工知能に占拠された地球です。

シンギュラリティが起こり、人間と人工知能の立場が入れ替わり、人間が滅ぼされた地球。

 

アンドロイドたちが永遠と最適化された生活しています。

壊れたら修理し、新しい個体が欲しくなったら製造します。

毎日新しいソフトウエアにアップデートします。

 

どうでしょう、

「こいつらいつまでも何をやっているんだ?」という気にならないでしょうか?

  

でも、

このようなことをうだうだ考えていると我々人間もAIだったりして、

なんてことも思いますね。

 

 

意味の意味ってなんだろう

 

ここまで書いて思ったことが一つ、

「意味」ってなんでしょうか。

「意味」という概念自体、幻想かもしれません。

 

意味を放棄して生きてみるのもありかもしれませんね。

新たな感覚に出会えるかも。

神に頼らなければ。

 

 現時点での私の感覚の話でした。

 理屈に穴があるような気がして仕方がないですけど、その場合はご容赦ください^^;

 

 

 

結構苦手?仕事コミュニケーションで汚染される思考

 

仕事でコミュニケーションに使ったエネルギー

 

ここ一週間結構喋りました。

内容としてはおしゃべり的会話です。

仕事でね。

 

なんやかやで普段の三倍以上話したかな。

そういうときもたまにはある。

プロジェクトによりけり。

 

普段使ってない脳の部位をフル稼働させた感じ。

脳トレしたような感覚。

疲れますよね。

 

コミュニケーションというものをがっつり意識した感じの一週間。

生産活動に注ぐエネルギーよりもコミュニケーションに使うエネルギーの方が多いくらい。

(まあこれも仕事のうちではありますが)

 

日本人はシャイで口数少ないとかよく言われるけど、結構おしゃべりです。

 

多分、アウエーだと急に物怖じしだすってことなのかもしれませんね。

ホームとなると急に流暢に喋り出す民族。

まあ別に変ではないか。

 

 

やっぱりみんな喋りたい?

 

世の中喋りたがりの人って結構いるんだなと感じる今日この頃。

 

多分、会話コミュニケーションというものは人を気持ちよくさせる。

 

テンションが上がると他人と関わりたくなる。

 

他の人とうまく繋がることで出てくる快楽物質がるのでしょうね。

 

 

 

あるいは、

 

気まずくならないために喋ってる感もある。↓

 

 

親しくない人とのコミュニケーションの苦痛

 

しかしながらあまり面識のない人との会話はどうでしょうね。

 

楽しめる人もいるだろうし、苦手という人も多いはず。

 

短時間なら楽しめるけど、長時間となると苦痛になってくるという人もいるはず。

 

 

気まずくならないために喋り続ける人もいる。

仕事雑談においてそういう人がいると結構助かるときもありますが

「今は静かにしていようよ」と思うこともある。

 

でも喋れるってことで色々な場面でその種の気まずさをクリアーすることができますね。

間を持たすための技術

 

しかも続けることによってだんだんと慣れてきて

少ないエネルギーでもそれが可能になってっくるはず。

(私がそう思うだけですが)

 

するとその類のコミュニケーションも楽しくもなってくるのだろうと感じます。

 

悪くない能力ですよね、、、、一見

 

 

 

 

親しくても、面識があってもコミュニケーションを取りたくない

 

たとえ親しかろうが、そこそこの知り合いであろうが仕事で雑談はあまりしたくない!

このようなパターンもあるはず。

 

そんな人もいるだろうし、そんな時もあるでしょう。

 

「時間の無駄だし必要以上に話さなくてもいい」や

「そんなうわべだけの会話をしてなんの意味があるの?」や 

「毎日毎日同じ人とそんなに喋ってよく飽きないわね!」

 

など思っている人も少なくないはず。

 

100パーセントではありませんが、

私もどちらかと言えばこの部類に属してしまいますかね。

 

 

ただ↓

 

会話コミュニケーションがうまく成立すると心地よい

 

この感覚は否めない。

自分の言ったことが相手に共感を与え、

相手の喋ったことに自分が共感を示せれば、

これはなかなか良い気持ちのするもの。

 

特にあまり面識のない人に対してはその反動やギャップも手伝って

気持ちよさのゲージはより上がるし、新しい人生の扉を開いたような感覚にもなる。

 

 

多分、

会話コミュニケーションにおいて、

定型的なセンテンスなりワードなり、質問事項なり、思考の仕方なりを

パターンとしていくつか頭の中にストックしておけば、

全くの他人相手でもある程度の日常会話は楽にこなせるのだろうなと感じます。

 

これが定着すれば、

さらにコミュニケーションのレベルをあげ、

より楽しさを演出できたり、より相手の心を開かせる術を取得したりと

より相手との信頼関係を築けたりすることもでき、

そしてそれが人生をおうかするためのものとして機能するだろうと感じます。

より良い人生を歩めそうな気がします。

 

 が

 

しかし

 

本当にそれでいいのかとも考えてしまう。

 

 

コミュニケーションで汚染される思考

 

確かにコミュニケーションがうまくいくと気持ちがいい。

社会において自分の位置付け感覚を増幅させられる。

 

ただ、気持ちの良いものには副作用やリスクがつきものですよね。

 

「酒、タバコ、覚せい剤、ギャンブル、恋愛・・・」

 

 

では端的に言ってしまうと

 

自分がなくなっていく感覚がある

 

 

会話とは多かれ少なかれ相手の顔色を伺うもの、

ある程度相手に合わせた内容や、

ある程度の思考の段階(思考のレベル)で会話を行わなければなりません。

 

最初はこれが疲れます。

 

しかし、上でも書きました、

慣れてくると少ないエネルギーでそれが可能になります。

楽にこなすことができるようになります。

すると楽しいものです。

(難しいものほど慣れれば楽しい)

 

しかし、

楽なった状態、楽しめる状態が怖いなと感じるところなのです。

 

なぜなら、

もはやそれは自分ではなくなっているから。

 

自分ではなくなっているから少ないエネルギー(慣れ)でその作業をこなせるということなのですが、

(言い方を変えると、本来の意識とは別の脳の場所に意識を常駐させている状態)

 

それはどういうことか↓

 

 

内向きに思考していることのアウトプットは難しい

 

「考え事」と言ったら何かに悩んでいるようですが、

それとは違い、

内的思考と言いましょうか、自分の中で思考しているモノ

(どれだけの人が普段それを行っているのかはわかりませんが)

 

それ(考え事)を外に向けてアウトプットするのは容易ではないと感じています。

 

もちろん内容にもよりますが、

個人的にマニアックになればなるほど人に伝えるのは難しくなってきます。

 

もし他人が理解できる言葉に変換できたとしても、

それをそのまま喋ってはダメで、

内容をさらにオブラートに包んだり、

一般的解釈した形で出力しなければ変人扱いされます。

 

その作業はなかなか骨が折れます。

 

(もともとマニアックを共有している者同士は別です)

 

 

 

仕事で久しぶりに一定期間面識の少ない人と雑談をしてみて、

 

私が普段よくする「考え事」をあまりやらなくなっていることに気がつきました。

 

とにかくインプットした情報をいかにおしゃべりネタに変換できるか、

ということに思考回路を使っていました。

思考のエネルギーや時間をそれに使っていました。

 

そしてそれが当たり前になれば、

晴れて私はおしゃべりな人間になっているのだろうなと思いました。

しかもそれが難しいものではないと感じてもいます。

 

すると私は深くものを考えない浅い思考の人間になるのかもしれません。

 

クリエイティビティが発揮されなくなるのではなかろうかと感じます。

 

 

ただ、バランスの取れた人もいるのだろう

 

もしかするとお笑い芸人に多いのかもしれません。

おぎやはぎ矢作兼などは特に思う)

 

他にも普通に存在するのかもしれません。

 

要するに二刀流ですね。

 

他人との雑談やおしゃべりも得意であり、

なおかつ、深い内的思考もする、

 

あるいは、

マニアックな内的思考をいとも簡単に一般レベルの内容に変換し、

楽しい内容を作り出せる人がいるかもしれません。

 

まあいるのでしょう^^;。

 

目指すべきはここなのか、、、

でも難しそうだなぁ。

 

 

クリエイター(芸術家)はお喋りが苦手?

 

クリエイティビティな人や、芸術度の高い人はおしゃべりが得意ではなく、

創造性がない人や、チャラい人はおしゃべりが得意、

 

みたいな分け方がなんとなくできるような気がします。

 

前者はオタクで、後者はリア充みたいな。

 

どちらかといえば私は前者の方が好ましく感じますが、

やはり両方バランスの取れた人の方が良いように感じています。

(この「良い」の定義にもよると思いますが)

 

なぜかというと、

どちらが正解なのかがわからないからです。

人生において。

(「人生」の定義にもよりますが)

 

感情論的に言いますと、

オタクであり、リア充をバカにする視点もあまり好きではないし、

自分の頭で何も考えていないようなチャラい人もあまり好きではない、わけです。

私的に。

 

それぞれ何かを見落としている感じがするから。

 

 

単純に2分割してしまうのもどうかと思いますけども、、^^;

深い内的思考にもアウトプット向きのものから

アウトプットに不向きのものまで様々ありますし、

チャらくても何も考えていないわけではなく、

むしろそこに哲学のようなものが存在していたりするのかもしれませんし。

 

 

ちなみに

「教養はハッタリだ」と言った言論人がいましたが、

言い得て妙だなと感じます。

何か言いたいか、、

知的で教養のある いかにも感じの良い人でも、

想像力が全然なく自分の頭で考えることができない人もいるということです。

逆に言うと、

想像力がなくても教養力があれば、

できた人間に見せかけることができると言うことですね。

すでに世に出ている多くの意見を引用し、

組み合わせを変え反復していればそれなりに知的に振る舞えます。

 

社会的に優秀でも頭空っぽの人はいるということです。(言い過ぎ?^^;)

 

 

仕事でコミュニケーション能力は大事かどうか

 

仕事によるのでしょうとしか言いようがありませんよね。

 

長々書いてきましたが、ここで言っているコミュニケーションとは、お喋りや雑談のことになります。

ビジネスシーンでの仕事とは少し離れた内容の会話のことです。

コミュニケーションを別のニュアンスで考えていた人はごめんなさい^^;

 

確かにおしゃべりができないときつい職種はあるかと思います。

例えば取引先の人と食事を含め一定期間共に行動することがよくある人など。 

 

しかし、そのような状態って結構無駄も多いんじゃないかと思います。

生産性が下がってしまう。

 

現状、そのようにしなければならないなら、

根本を見直すことも大事になってくるのではないかと思います。

 

そのお喋りをしなければならない時間のいくらかを仮眠に当てるか、

パソコンなどを使って仕事をするなどということを相手と合意形成するなど、、

(内容が漠然としすぎ?^^;) 

 

 んー

でもお喋りが好きな人もいるし、

それが楽しいなら別にそれもいいのかなあとも思っちゃいますね、

楽しく仕事をするっていいものですからね。

そういう人生の楽しみ方、生き方、ワークライフ、それはそれでいいのかもしれない。

 

でも中にはお喋りを望まない人もいるから難しいところ。

 

 

自分はどう働きたいか、そしてそれは可能なのか、、 

不可能ならどうするべきか、

この辺りの検証や努力が必要になってきますね。

 

 

 

サッカー日本代表が得た貴重なサンプルと規律維持の難しさ

ワールドカップサッカーロシア大会見ました

 

久しぶりの代表のサッカー観戦。

まともに見たのは約4年ぶりかな。

 

燃えました!

面白かった!

楽しかった!

 

コロンビア → セネガルポーランド → ベルギー

 

この順番でワクワク度合いが上がっていきましたね。

まあ試合の順番です!

 

前置きはさておき、

今回の記述の要点を並べますと、

 

  1. ポーランド戦の時間稼ぎについて
  2. 戦略、戦術を最後までやり通す難しさ
  3. 日本チームが得た貴重なサンプル
  4. ナショナリズムをあおられた

 

 

ポーランド戦の時間稼ぎからより楽しくなってきた

賛否両論色々ありましたが、

率直に述べると私はポーランド戦の時間稼ぎを見た瞬間、

日本代表のサッカーがより楽しくなってきました。

 

私が代表の試合に重点を置いていたのは負けない、敗退しないことだったんですね。

そのことがわかった試合でした。

 

と言うのも、

試合翌日の報道を見るまでは気がつかなかったのですが、

私は皆が賞賛しているものだと思っていましたが、

あの戦法を批判する人がたくさんいたんですね。

 

「日本人として恥ずかしい」みたいなことで叩いている人が多くいて、

正々堂々を信念にサッカーを応援している人が多くいるんだなと感じました。

 

それで一つ腑に落ちたこどがありました。

 

以前にも投稿したこの記事に対するアンサーが示されたような気がします。

 

この記事では、

なぜ弱いのに皆さん日本代表サッカーを応援するのだろう、ということを書いていますが、

ポーランド戦の時間稼ぎに対する批判でもあった

「負けても、予選敗退しても堂々とした試合をしてほしかった」と言う多くの意見。

これでわかったこと、

 

日本代表は弱くても良いんだ、だから弱くても応援するし盛り上がるんだ

 

ということですね。

 

私はもっと緻密な戦術でもって負けないチームを作ってもらいたく思う次第^^;

そしてそれが日本にはできると思っているだけになおさら。

このあたりの違い。

 

 

だけど

戦略、戦術をやり通すのは難しいんだなとベルギー戦で感じた

 

決められたことをやり抜く、信念を貫き通す、

そして(戦略的)秩序を維持すること、

やはりこれが難しい。

 

 

ベルギー戦で2点を先制したあと、

素人の私でもわかるほどに、パスの方向が明らかに変わりました。

今までは後ろに送っていたはずのボールを、横か前にパスするようになったのです。

 

浮き足立ってる感丸出しでした。

やばいと思いました。

 

私が今回の西野サッカーで感心していたところは、

ポーランド戦で見せた徹底した戦略です。

 

その徹底さが今までなかったが故に負けてきたんです。

 

今までは調子良いときもあれば悪いときもある、

みたいな安定しない状態を代表サッカーは繰り返してきたのです。

 

2点入った段階で徹底した秩序維持を実行してもらいたかった。

前半戦のような淡々とした戦いをしてもらいたかったところ。

 

しかし、

なぜそのように日本の戦略秩序が崩れていしまったのか

 

 

 

日本サッカーが得た貴重なサンプル

 

初めての自体に冷静になれなかったのだと私は思います。

選手、監督の体が異常事態を感知したのだろうと。

 

ワールドカップベスト16の試合において、

前評判のかなり高いベルギーあいてに2点をリードするなんて誰も予想しませんよね。

 

あり得ない状況に立たされて本来の思考回路がうまく機能しなくなったのだと思います。

 

そして私が思ったことは、

「世界の強豪国はこの試合展開、こういった試合感覚を何回も何回も経験しているのだろうなぁ」でした。

 

要するに試合展開のサンプルとして

サッカー思想、身体感覚に組み込まれているのではないかと、

あるいは物心ついたときから。

 

ワールドカップみたいな大舞台において2点のリードは安心できない、

あるいは、

2点取られたってまだまだチャンスはあるんだ。

みたいな感覚が体に備わっているのではないか。

 

2点目を取られたときのベルギーの監督の表情がカメラに抜かれてましたが、

頭を抱えてはいたものの、そこまで落ち込んではいませんでしたから。

 

さらに

サンプルと言いましたが、

この試合展開サンプルを強豪国になればなるほどたくさん持っているのではないでしょうか。

 

例えばブラジルやフランスなどは、

ワールドカップやその他大舞台での、

負けパターンや勝ちパターンがサッカー思想としてふんだんに持っているのではないのではなかろうか、

そう思いました。

 

なので、

日本は今回負けましたが、この一つのサンプルを思想に刻んで、

次に生かせれば良いのではないだろうかと感じました。

いくつかのサンプルがたまるまでは時間がかかりそうですね^^;

 

 

 

ナショナリズムがあおられ、負けて少し安心

 

試合が進むにつれて熱心に日本を応援するようになってました。

楽しかったです。

良い経験をありがとうと言ったところですね(^-^)

 

負けてしまったのは残念ですが、

でもこのまま負けていなかったら少し怖かったなとも思いました。

 

あり得ないけど、

このまま勝ち進んで優勝でもしちゃったなら、

 

世界に対して

日本人としての誇りが向上したでしょうし、

日本人としてのアイデンティティの確立性も向上したでしょう。

 

しかし負けてふと思ったこと、

我々日本が勝っていればベルギーは負けています。

日本人は喜び、ベルギー人は落ち込みます。

 

結局は喜ぶところがあれば、落ち込むところがあるわけです。

 

我々は同じ人類だと考えた場合、

どちらに転んでも、トータルはイーブンなんだなぁということ。

 

じゃあどこに勝てば正しいのか、

何に勝てば正しいのか、

 

正義はどこにあり、悪はどこにあるのか。

 

試合、ゲーム、勝負事、戦争、、、

 

負けたことでやっと、これはただの真剣なゲームなんだ、

終わればお互いに褒め称え尊重しなければならないんだなぁ

と感じました。

 

もし弱小の日本が優勝でもしてしまったなら、

天狗になっていたかもしれません。

 

徐々に徐々に強くなっていきましょう。

 

そういう意味では勝ち進んでいるロシアは少し怖い^^;

 

「孫をつくることが一番の親孝行だよ!」なんて言われた日にゃ・・

  

先日、とある高齢者の方に

「孫を産んでくれることが最大の親孝行だよー」

なんて言われました。

 

それほど孫は可愛いものだと言うことでしょう、

その現れである表現だったのだろうと思います。

 

しかし、

 

これを親に言われたらたまったもんじゃないな!とも感じたしだい。

 

言った高齢者の方も他人である私だから言えたのだろうし、(多分)

特に深い意味はなく、ただのおしゃべりであったのだろうと思いますが。

 

 

ではなぜ私がこれを親に言われたらたまったもんじゃないと感じたか、

 

別の言い方をしてみると、

 

親が子に言うべき発言ではない、と感じたということになります。

 

 

孫を見るために子供を産んだの?

 

と言われかねない。(例えばですが)

 

するとどうでしょう、

言われた親は立場ないですね。


「ああそうだよ」とは言いにくい(´д`)

 

 

こういう親の思想だと、

 

(一例)

お金も時間もたくさん使い親の世話をしているが

子供を作らなかった、あるいはできなかった長男

 

それに対して、迷惑ばっかりかけて親に何もしてこなかったが子供を3人産んだ次男

 

この場合、親からの評価と感謝は次男へ向き、さらに遺産は孫のいる次男へ全部いく、

なんてことも起こりかねない。

 

 

そもそも親孝行と言う言葉は親が使うべきものなのか

という疑問もあります。

 

ほぼほぼの可能性で親のエゴで子供は生まれてき、

親の洗脳を受けて育っていきます。

 

そんないたいけな我が子に親孝行まで求めるのか!

とも感じますけどね。

  

 

とは言っても孫を見たいと思う親の気持ちもわかる

 

批判的なことを述べてきましたが、

人が孫の顔を見たいと思うというものは不健全なことではないだろうし、

 

いくらうだうだ言っても、事実、人は孫の顔を見たいもの!

 

 

 

ではなぜ、親は孫の顔を見たいと思うのか

 

動物に備わる子孫繁栄の本能というものがまず先に思いつきますが、

これは一つの大きな仮説としておいておき、今回は別の視点から考えたい。

 

さらに、

私は親ではないのであくまで、子供すらいない人間の単なる想像としての考えであることを了承していただきたいと思います^^;

 

 

ゴールとしての子供、孫、子孫 

 

子孫を残すということは人生における一種のゴールの形ではないか!

 

もちろん、子供に関しては独立させるまでであり、

孫の誕生はその集大成となる出来事になります。

 

人間とは目標やゴールが必要な生き物ではないかと感じます。

その理由の考察は今は横に置いておき。

 

その目標やゴールを達成したからといって何かが起こるわけでもありませんが、

目指すものがなければ生きることに疑問を感じ、生きづらくなってしまいます。

 

 

さらに人間には自分が生きた証となるものを残しておきたいという欲求もあるように思います。

自分と強く関わりのあるものをこの世界に生み出し、残していきたいわけですね。

(その理由についても今は考えませんが)そのように感じます。 

 

そうなると子供を作り、さらにこれにも子ができるということは欲求を大きく満たすものと思われます。

 

 

一見無意味な仕事でも

 

世の中、無意味であろう仕事が多々あります。(無意味が悪いという意味ではありません)

公共的に完全に無意味なものから、

個人的に的に無意味だと感じるものまで様々あります。

(こういうことを書くと全ての物事が無意味なものに感じてきますがこれも横に置いておきます)

 

これらの仕事をしている人はある段階で、

(あるいは社会的に意味のある仕事をしていても)

自分の仕事に対して自己疑問に陥らないのだろうかと思うことがあります。

ふと、

何で自分はこの仕事をしていて、最終的には何になるのだろうみたいな疑問ですね

 

しかし 

 

自分に子供がいるならば、

 

その経済活動で一応お金を獲得し、

子供に満足のいく生活をさせているのなら意味のある営みになってくるわけですね。

 

そしてその子供がきちんと孫をつくることになったあかつきには、

自分の人生間違っていなかったなと大いに思えるわけです。

 

その満足感

「孫をつくることが一番の親孝行だよ」

と言う言葉になるのかなと思いました。

 

 

 しかし人生や仕事に意味を考え出したらキリがありませんよね (´д`)

 だけど考えることで何かしらの社会的、人間的軸が作られている気もします。

 

「何かしら」が何であるかというのもまたよくわからないですけどね。