モノミオン ラボ

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monomion Labo

サッカー日本代表が得た貴重なサンプルと規律維持の難しさ

ワールドカップサッカーロシア大会見ました

 

久しぶりの代表のサッカー観戦。

まともに見たのは約4年ぶりかな。

 

燃えました!

面白かった!

楽しかった!

 

コロンビア → セネガルポーランド → ベルギー

 

この順番でワクワク度合いが上がっていきましたね。

まあ試合の順番です!

 

前置きはさておき、

今回の記述の要点を並べますと、

 

  1. ポーランド戦の時間稼ぎについて
  2. 戦略、戦術を最後までやり通す難しさ
  3. 日本チームが得た貴重なサンプル
  4. ナショナリズムをあおられた

 

 

ポーランド戦の時間稼ぎからより楽しくなってきた

賛否両論色々ありましたが、

率直に述べると私はポーランド戦の時間稼ぎを見た瞬間、

日本代表のサッカーがより楽しくなってきました。

 

私が代表の試合に重点を置いていたのは負けない、敗退しないことだったんですね。

そのことがわかった試合でした。

 

と言うのも、

試合翌日の報道を見るまでは気がつかなかったのですが、

私は皆が賞賛しているものだと思っていましたが、

あの戦法を批判する人がたくさんいたんですね。

 

「日本人として恥ずかしい」みたいなことで叩いている人が多くいて、

正々堂々を信念にサッカーを応援している人が多くいるんだなと感じました。

 

それで一つ腑に落ちたこどがありました。

 

以前にも投稿したこの記事に対するアンサーが示されたような気がします。

 

この記事では、

なぜ弱いのに皆さん日本代表サッカーを応援するのだろう、ということを書いていますが、

ポーランド戦の時間稼ぎに対する批判でもあった

「負けても、予選敗退しても堂々とした試合をしてほしかった」と言う多くの意見。

これでわかったこと、

 

日本代表は弱くても良いんだ、だから弱くても応援するし盛り上がるんだ

 

ということですね。

 

私はもっと緻密な戦術でもって負けないチームを作ってもらいたく思う次第^^;

そしてそれが日本にはできると思っているだけになおさら。

このあたりの違い。

 

 

だけど

戦略、戦術をやり通すのは難しいんだなとベルギー戦で感じた

 

決められたことをやり抜く、信念を貫き通す、

そして(戦略的)秩序を維持すること、

やはりこれが難しい。

 

 

ベルギー戦で2点を先制したあと、

素人の私でもわかるほどに、パスの方向が明らかに変わりました。

今までは後ろに送っていたはずのボールを、横か前にパスするようになったのです。

 

浮き足立ってる感丸出しでした。

やばいと思いました。

 

私が今回の西野サッカーで感心していたところは、

ポーランド戦で見せた徹底した戦略です。

 

その徹底さが今までなかったが故に負けてきたんです。

 

今までは調子良いときもあれば悪いときもある、

みたいな安定しない状態を代表サッカーは繰り返してきたのです。

 

2点入った段階で徹底した秩序維持を実行してもらいたかった。

前半戦のような淡々とした戦いをしてもらいたかったところ。

 

しかし、

なぜそのように日本の戦略秩序が崩れていしまったのか

 

 

 

日本サッカーが得た貴重なサンプル

 

初めての自体に冷静になれなかったのだと私は思います。

選手、監督の体が異常事態を感知したのだろうと。

 

ワールドカップベスト16の試合において、

前評判のかなり高いベルギーあいてに2点をリードするなんて誰も予想しませんよね。

 

あり得ない状況に立たされて本来の思考回路がうまく機能しなくなったのだと思います。

 

そして私が思ったことは、

「世界の強豪国はこの試合展開、こういった試合感覚を何回も何回も経験しているのだろうなぁ」でした。

 

要するに試合展開のサンプルとして

サッカー思想、身体感覚に組み込まれているのではないかと、

あるいは物心ついたときから。

 

ワールドカップみたいな大舞台において2点のリードは安心できない、

あるいは、

2点取られたってまだまだチャンスはあるんだ。

みたいな感覚が体に備わっているのではないか。

 

2点目を取られたときのベルギーの監督の表情がカメラに抜かれてましたが、

頭を抱えてはいたものの、そこまで落ち込んではいませんでしたから。

 

さらに

サンプルと言いましたが、

この試合展開サンプルを強豪国になればなるほどたくさん持っているのではないでしょうか。

 

例えばブラジルやフランスなどは、

ワールドカップやその他大舞台での、

負けパターンや勝ちパターンがサッカー思想としてふんだんに持っているのではないのではなかろうか、

そう思いました。

 

なので、

日本は今回負けましたが、この一つのサンプルを思想に刻んで、

次に生かせれば良いのではないだろうかと感じました。

いくつかのサンプルがたまるまでは時間がかかりそうですね^^;

 

 

 

ナショナリズムがあおられ、負けて少し安心

 

試合が進むにつれて熱心に日本を応援するようになってました。

楽しかったです。

良い経験をありがとうと言ったところですね(^-^)

 

負けてしまったのは残念ですが、

でもこのまま負けていなかったら少し怖かったなとも思いました。

 

あり得ないけど、

このまま勝ち進んで優勝でもしちゃったなら、

 

世界に対して

日本人としての誇りが向上したでしょうし、

日本人としてのアイデンティティの確立性も向上したでしょう。

 

しかし負けてふと思ったこと、

我々日本が勝っていればベルギーは負けています。

日本人は喜び、ベルギー人は落ち込みます。

 

結局は喜ぶところがあれば、落ち込むところがあるわけです。

 

我々は同じ人類だと考えた場合、

どちらに転んでも、トータルはイーブンなんだなぁということ。

 

じゃあどこに勝てば正しいのか、

何に勝てば正しいのか、

 

正義はどこにあり、悪はどこにあるのか。

 

試合、ゲーム、勝負事、戦争、、、

 

負けたことでやっと、これはただの真剣なゲームなんだ、

終わればお互いに褒め称え尊重しなければならないんだなぁ

と感じました。

 

もし弱小の日本が優勝でもしてしまったなら、

天狗になっていたかもしれません。

 

徐々に徐々に強くなっていきましょう。

 

そういう意味では勝ち進んでいるロシアは少し怖い^^;

 

「孫をつくることが一番の親孝行だよ!」なんて言われた日にゃ・・

  

先日、とある高齢者の方に

「孫を産んでくれることが最大の親孝行だよー」

なんて言われました。

 

それほど孫は可愛いものだと言うことでしょう、

その現れである表現だったのだろうと思います。

 

しかし、

 

これを親に言われたらたまったもんじゃないな!とも感じたしだい。

 

言った高齢者の方も他人である私だから言えたのだろうし、(多分)

特に深い意味はなく、ただのおしゃべりであったのだろうと思いますが。

 

 

ではなぜ私がこれを親に言われたらたまったもんじゃないと感じたか、

 

別の言い方をしてみると、

 

親が子に言うべき発言ではない、と感じたということになります。

 

 

孫を見るために子供を産んだの?

 

と言われかねない。(例えばですが)

 

するとどうでしょう、

言われた親は立場ないですね。


「ああそうだよ」とは言いにくい(´д`)

 

 

こういう親の思想だと、

 

(一例)

お金も時間もたくさん使い親の世話をしているが

子供を作らなかった、あるいはできなかった長男

 

それに対して、迷惑ばっかりかけて親に何もしてこなかったが子供を3人産んだ次男

 

この場合、親からの評価と感謝は次男へ向き、さらに遺産は孫のいる次男へ全部いく、

なんてことも起こりかねない。

 

 

そもそも親孝行と言う言葉は親が使うべきものなのか

という疑問もあります。

 

ほぼほぼの可能性で親のエゴで子供は生まれてき、

親の洗脳を受けて育っていきます。

 

そんないたいけな我が子に親孝行まで求めるのか!

とも感じますけどね。

  

 

とは言っても孫を見たいと思う親の気持ちもわかる

 

批判的なことを述べてきましたが、

人が孫の顔を見たいと思うというものは不健全なことではないだろうし、

 

いくらうだうだ言っても、事実、人は孫の顔を見たいもの!

 

 

 

ではなぜ、親は孫の顔を見たいと思うのか

 

動物に備わる子孫繁栄の本能というものがまず先に思いつきますが、

これは一つの大きな仮説としておいておき、今回は別の視点から考えたい。

 

さらに、

私は親ではないのであくまで、子供すらいない人間の単なる想像としての考えであることを了承していただきたいと思います^^;

 

 

ゴールとしての子供、孫、子孫 

 

子孫を残すということは人生における一種のゴールの形ではないか!

 

もちろん、子供に関しては独立させるまでであり、

孫の誕生はその集大成となる出来事になります。

 

人間とは目標やゴールが必要な生き物ではないかと感じます。

その理由の考察は今は横に置いておき。

 

その目標やゴールを達成したからといって何かが起こるわけでもありませんが、

目指すものがなければ生きることに疑問を感じ、生きづらくなってしまいます。

 

 

さらに人間には自分が生きた証となるものを残しておきたいという欲求もあるように思います。

自分と強く関わりのあるものをこの世界に生み出し、残していきたいわけですね。

(その理由についても今は考えませんが)そのように感じます。 

 

そうなると子供を作り、さらにこれにも子ができるということは欲求を大きく満たすものと思われます。

 

 

一見無意味な仕事でも

 

世の中、無意味であろう仕事が多々あります。(無意味が悪いという意味ではありません)

公共的に完全に無意味なものから、

個人的に的に無意味だと感じるものまで様々あります。

(こういうことを書くと全ての物事が無意味なものに感じてきますがこれも横に置いておきます)

 

これらの仕事をしている人はある段階で、

(あるいは社会的に意味のある仕事をしていても)

自分の仕事に対して自己疑問に陥らないのだろうかと思うことがあります。

ふと、

何で自分はこの仕事をしていて、最終的には何になるのだろうみたいな疑問ですね

 

しかし 

 

自分に子供がいるならば、

 

その経済活動で一応お金を獲得し、

子供に満足のいく生活をさせているのなら意味のある営みになってくるわけですね。

 

そしてその子供がきちんと孫をつくることになったあかつきには、

自分の人生間違っていなかったなと大いに思えるわけです。

 

その満足感

「孫をつくることが一番の親孝行だよ」

と言う言葉になるのかなと思いました。

 

 

 しかし人生や仕事に意味を考え出したらキリがありませんよね (´д`)

 だけど考えることで何かしらの社会的、人間的軸が作られている気もします。

 

「何かしら」が何であるかというのもまたよくわからないですけどね。

 

 

死んだはずの人が蘇るとびっくりするよね。あなたはどこへ行ってたの?

 

2018年6月の出来事。

死んだはずの男性がひょっこり現れる。

 

このニュースを伝えている最中、

アナウンサーの生島ヒロシはしばらく

「なんと言っていいかわからない」と言いながら泣き笑いをする。

朝のラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」にて。

 

まるで放送事故でしたね、

笑いが止まらなくて番組がしばらく進行せず、

この時来ていたゲストコメンテーターの女性は

「そんなんになっちゃったら私困っちゃうわ〜」なんて言って確かに困っていましたけど、

 

彼は 

死んだはずの人がひょっこり現れた様子をリアル想像したのでしょう、

確かに気持ちはわからないでもない。

色々な感情が入り混じりそのような現象になったと思われます。

 

私も以前、近い親戚の葬儀の際、

通夜にて、肉体的に全くダメージのない故人の亡骸を見て、

「いきなり起き上がったりして、、、もしそうなったらどうなるだろう」

というようなことを想像をしていたことを思い出しました。

それはそれは親族一同腰が抜けるだろうなと思ったのを思い出しましたね。

 

これに近い事態が今回起こったということになります。

死んだはずの人がそこに生きて立っている。

生島ヒロシが泣き笑いが止まらなかった感じもわかります。

 

 

遺体を見ると色々思う

 

まあそれはさておき、亡くなった人の亡骸を見ていると色々と感じることがありますよね。

 

体はそこにあるのだけど、意識がない。

意識がないと言っても、気絶している種類の「ない」ではなく、

もうそこには「ない」という感じ。

 

物質(遺体)はそこにあります。

しかしその中身(存在)がそこにない状態。

 

特に親しかった人に関しては特別な感覚が生じます。

 

見慣れたその顔がそこにあるけど、そこに中身がない

そこに「いる」のに「いない」

 

不思議ですよね。

「ある」と「ない」の混在状態。

この「ある」と「ない」の概念的な感覚を認識するのが難しい。

 

すると

 

では、

私たちはそもそも生きている人に対し、

なにを持って「その人がある」「その人がいる」としているのだろう、

そのようにも感じました。

 

動いて喋っていればそこには「ある」ということになるのですが、

そこに潜む観念的なモノは何なのだろうかと思ってしまうわけです。

 

 

「ある」「ない」の乖離(かいり)にはレベルがある?

 

例えば面識のない人に関して。

この人が亡くなったとしても「ある」「ない」に乖離(かいり)は起きません。

「どこどこの誰々さん亡くなったみたいだよ」

と言われても全く関わりのない人なら心を揺さぶられることはありませんね。

なぜか自分がその人の通夜に行くことになり遺体を見ることになった場合でも、

多少はあるかもしれないけど親しい人ほど大きな乖離は起きないであろうと思います。

 

多少面識のある人の死

んー、

これもそこまで乖離は起きないような気がします。

遺体を見ることで生命の不思議は感じるかもしれませんが。

 

 

芸能人

影響力のある芸能人が亡くなったとき、

多くのファンの人たちが泣いているのがよく報道されますね。

あれはどのような心理なのでしょう。

私には経験がありませんのでわかりませんが、

芸能人とファンとの関係性は、教祖と信者の関係性に似ている部分もありますから、

自分の生きがいにしていた対象のものが消滅した悲しさ、

といった感じでしょうか(あくまで一つの理由としてですが)

 

そこに「ある」「なし」の乖離はあるのでしょうか。

想像するにあまりない、

それは芸能人という存在自体が架空性の強いものだから。

「虚構」が「なくなる」って感じですかね。

 

 

親しかった人、近い間柄の人

上で述べた通り、

「ある」「ない」の乖離が起きます。

 

 

 

なぜ関わりの深い人であればあるほど乖離が起こるのか

 

そりゃそうだろ、近い人に対してはそうように感じるだろ!って感じにもなりますが、

やはり不思議な乖離が存在します。

 

じゃあなぜ近い人に関してはこの不思議な感覚が存在するのか。

 

私が思う一つのことは、

 

相手(故人)が自分のことをどれだけ認識していたか、

そしてそれを自分がどれだけ認識していたか、

が、キーになっているように思います。

 

すると

何を持って相手を「ある」としているのか、

それは

相手(故人)の中に自分がどれだけ存在していたか

になるように感じます。

 

自分がその人の中に「ある」

の「ある」とも言えるのではないでしょうか。

 

 

 例えば、

道を歩いている全く面識のない人。

その人には人格はなく、機械仕掛けで動いているだけだとしたら、、、

なにも感じません。

どちらでも私には影響はない。

意識のない機械であろうが、 あるいは完璧な人格者であろうが関係ない。

 

関わりのある人が道を歩いている、

関係性が深ければ深いほどそこに「ある」が存在してきます。

そこに自分を投影しているからのような気がします。

 

 

人は自分を映す鏡ともいいますが、

 

自分を認識してるであろう人がいなくなるということは、

鏡がなくなる、

自分(の一部)が見えなくなるということにもなるのではないでしょうか。

 

そして

その投影の象徴が体躯、特に顔になります、

私たちは顔(物質)などを見ることでその存在(鏡)を認識します。

 

体躯、顔がそこにあるのに意識が「ない」

「ある」はずのものが「ない」

そこに「ある」はずの自分のかけらが見当たら「ない」

そこに自分を投影しようにも、あるはずの鏡が見当たらない。

鏡らしきものは「ある」のに。

 

さらに

メタファーがない、

とも言えそうであり、

だから、

こうも言えそう、

存在はメタファーである。

 

やはりそこで感じる認識に違和感を感じざるを得ないです。

 

 まさに亡骸といったところ。

 

 

 

では意識はどこへ行ったのか。

 

次に思うことは

「なくなってしまったものはどこへ行ったのか」です。

 

この非物質的、形而上学的なものと言いましょうか、

とても認識しにくい概念。

 

 今までは体に繋がっていたであろう意識、

これは消滅してしまったのでしょうか。

 

そもそも意識が抜けてしまった状態を死とするならば、

既に亡くなっていますから、そこに意識はない。

 

消滅したのかどこかへ行ってしまったのか。

謎です。

 

でも謎であるならば、

消滅の可能性もあれば、どこかへ行ってしまった可能性も両方ありますね。

両方の仮説が立てられます。

 

あるいは、

高次元化したか。(そこにありつつ形を変えた)

 

 

いずれにしろ人間的感覚では認識しようがありませんね。

 

 

人としてのゴール

 

亡くなってしまった親戚を見て私は

人としてのゴールを迎えたんだなと思いました。

 

誰もが到達するであろうこのゴール。

それまでになにを成し遂げようが関係ありません。

 

 

若くして亡くなった人に対して人々は

「勿体無い、まだやれることがあったのに」などと言います。

しかし私が瞬間的に思ったことは、

人より早くゴールテープを切ったんだな、でした。

 

いずれ私もこのときが来るのだけど、この人は昨日がそのときだったんだな、と。

 

この世での出来事が重要だと考えるのはこの世に生きているから。

高次元的に考えると、形を変えたに過ぎない。

のかもしれない。

 

「なくなる」の本当の意味を私たちは知らない。

 

 

 

 

「もうゆるしてください」5歳女児の文章能力からみる子供の天才性

 

最近(2018年6月)の事件報道より。

 

「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」

 

5歳の少女が親に向けて綴った文章。

 

どんなに優れた文学よりも心に刺さりますね。

 

この少女は虐待により死亡。

のちに発見されたノートには

 

 もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします

 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします

 

と書かれていました。

衝撃的です。

まず感じるのは悲しみと両親への憎悪です。

被害を受けた女児は、我々の想像をはるかに超えるであろう生きた心地のしない毎日だったことでしょう。

 

しかし少し落ちつたあとにこれ(悲しみや怒り、憎悪)とは別に、

いくつか感じたことがありましたのでそれを書いていきたいと思います。

 

 

高いレベルの言語能力

 

虐待をしてしまう親からは想像できない言語表現力です。

とても5歳とは思えません。

 

5歳にしてまともな文章を作れることもしかり、

さらに自分の意思をはっきりと表現できていることにも感服します。

 

何が悪いのかを自己分析し、改善点をあげています。

今後どうするべきであるということを明確に示しています。

 

親に指示されて反省文的に書いた可能性もありますが、
そうすると「許してください」と書くかは疑問ですので、
ここでは、ある程度自分の意思で書いたとして考えていきます。

 

生きていればとても立派な人間になっていたであろう可能性を想像し、

惜しい人材を失ったなと感じました。

 

 

稀にいる高い言語レベルで話す子供

 

テレビなどを見ていてもごく稀にすごく高度な会話する子供を見かけます。

 

テレビだけではなく実際に街中でも見かけることがあります。

 

見かける度に、この子の親はすごく高度な対話でもって子供に接しているんだろうなと漠然と思っていました。

 

後天的なものだと思っていたわけですが、

この度、それはもしかすると先天的要素もあるのではないかと感じました。

 

なにせ虐待をするような親の元にいた子なのですから。

 

 

先に謝ってほしい

 

ここで、私が体験した高度な言語表現をしていた子供のエピソードを一つ。

 

ショッピングセンターで買い物をしていたときに見かけた親子の会話です。

 

母親と4歳くらいの女の子のやりとり。

 

私が見たときには二人は喧嘩の真っ最中でした。

途中から見たので原因はわかりませんが。

 

娘 「ママが謝るべきだと思う」

母 そっぽを向き商品を眺めている。

娘 「ねえ謝ってよ」

母 そっぽをむく、そして移動

娘 追いかける。

娘「ねえ、なんで謝ってくれないの?」

母 そっぽを向いている。

ーーこのようなやりとり、少し省略ーー

「もしかしたら私が悪いのかもしれない、ママに嫌な思いさせたかもしれない、でも今はママに先に謝って欲しいの。そしたら私も素直になれるから、そしたら私も謝るから、今はそうして欲しいの。そしたら全部解決するの。ママが先に謝ってくれたら私の気持ちも晴れるから。今日は私の誕生日だからそうして欲しいの」

 

 

これも衝撃的でしたね。

 

親の方が子供だな、と思う以上に子の方が大人すぎるなと思うしだい。

母親はまだ30歳前後でしたし、若さゆえ意固地になってしまうこともあるでしょう。

子供相手にどうだろうと思うところはありますが、まあ普通のような気はします。

 

 

しかし子供の方がすごすぎる

 

お互いに素直になれない、意固地になって譲歩できない感覚を完全に読み取っています。

そしてこの膠着をどうすれば打開できるかを提案しているわけです。

4歳くらいです。

 

私はこの後二人を見失い、しばらくしてまた再会しましたが、

そのときは二人は手を繋いで歩いていました。

娘の方が母親に楽しそうに甘えていました。

わだかまりが溶けたあかつきにはこのような楽しい時間が待っていることまで

娘は予測していたのだろうと推察します。

なにせ誕生日なんですからね。

 

これだけ口が達者でも子供は母親に甘えたいんですね。

 

でも母親はこんな我が娘に恐怖のようなものを感じていたりして。

自分より大人な娘。

わかりませんが。

 

 

 

やはり先天的なのか

 

上記のようなエピソードを書いていてもやはり

この言語表現能力は先天的に備わっているものなのかもしれないと感じます。

状況表現能力と言ってもいいかもしれませんが。

 

見る限りにおいて、

母親の方は何か言ってはいましたが、記憶に残るような高度な言葉は発してはいなかったと思います。

普通のことを言っていたような記憶が残っています。

「なんで私が謝るのよ」みたいな感じですね。

 

天才的です。

 

 

話を変えて↓

 

虐待は連鎖する

 

話を戻し、虐待死の事件について。

きっとこのニュースを見た人のほとんどがカメラに映された親の実際の姿を見てさらなる怒りを感じたことでしょう。

「やったのはこの親か!」みたいな。

 

私も感じました。

実物を見るとリアリティが増して、より感情移入しやすくなるのでしょう。

 

 

しかし、少しして思うこと。

きっとこの母親も親に虐待されたのかもしれないな。と。

そのような雰囲気を感じてしまいました。

 

虐待を主導した父親は再婚相手です。

母親は自分の身を案じ、夫にさからえず一緒になって虐待をしてしまったということでした。

よくあるパターンですね。

 

母親に対して「そんなに自分が可愛いか!」などの意見が見受けられますね。

しかし、

存在を認められてこなかった人は認めてくれる人には、死活問題的に絶対嫌われたくないもの。

夫の、少なくともその一側面は自分を認める存在であり、

すると夫は自分の存在を定義する存在となります。

 

この母親は、自分とは何か、どのように自分は存在していくべきなのか、

などというアイデンティティのようなものが育っていなかったかもしれません。 

 

(あくまで個人の憶測です(´д`))

 

 

根底には貧困の問題?

 

児童相談所の対応がまずかったんじゃないかという意見もよく聞きます。

もちろんそれもあるとは思いますが、行政的な場所に批判を与えるとすれば、

貧困層が増え続けている日本の状態に真剣にメスを入れる気概を感じない政府側にではないかと感じますね。

 

経済的な不自由を強いられ、生きることに余裕がないでいると、

なんの為に子供を作り、なんのために子供を育てていくのかを考えることができません。

答えはないかもしれませんが、考えることに意味があります。

余裕があっても考えない人もいますけどそれはまた別の話として。 

 

憶測の憶測ですが、

そのような貧困的要因もこの事件にはあったのではないかと思います
(事件を起こした母親の家庭環境)

もし違っていたとしても別の場所で貧困による虐待が起こる可能性は十分にあります。

 

政府の言う少子化対策は奴隷をたくさん作りたいと考えているように感じます。

 

しかしこれからはソフトの時代、奴隷を量産したところでAIには太刀打ちできませんし、

虐待因子を増やすことにも繋がります。

 

誰もが精神的余裕を持ち、人間的知性、芸術性などを十分に養える環境づくりをしていかなければ、

日本、あるいは世界は終わるような気がしてなりません。

文明が滅びます。

 

因みに、AIには文明は作れないと思います。

 

 

 

ノーベル文学賞にはこの文章を

 

今回亡くなってしまった5歳の女の子が残した文章。

 

倫理的に実際に受賞するのは難しいかもしれませんが、

もしかするとノーベル文学賞に匹敵するくらいのポテンシャルを秘めているかもしれません。

このような記録が残っていて本当によかったと思います。

 

 

日本代表ってサッカー弱いよね? 松木安太郎はあり?なし?

 

いつもすごい盛り上がっている印象の日本代表サッカーの試合ですが、

 

日本代表って強いの?

 

私は前回のワールドカップ以来ほとんどサッカーの試合を見ていないのです。

なぜなら、

日本代表がすごいマイナーなチームに見えちゃったから。

その他のチームに比べてね。

もちろん日本では一番強い、、、ですよね?

 

漫画とかでよくある裏ナショナルチームみたいなアウトローなチームがあるとしたら負けたりするかも、なんて思いましたけど^^;

それほど弱く見えたってことですね。

 

FIFAランキング60位(2018/05/20現在)(((;゚Д゚))

OECD加盟国数、34ヶ国

34位以内に入ってないとやばくない?

なんとなく^^;

 

伊調 馨(いちょう かおり)オリンピック四連覇!!

なでしこジャパン、直近のワールドカップ優勝と準優勝!

 

 

それでも男子ナショナルサッカーは盛り上がる!

 

それでも日本代表の試合がある日は周りでもメディアでも盛り上がる、

なぜだろうと思いつつ気にせず放置していました、

この度、サッカー経験者の友人にそのことをふと訊ねてみて思うところがあったので少し書き込み。

 

 

まず、日本サッカーって弱いよね?って質問

 

(A氏)昔は弱かったけど今はそこそこだよ!

 

そこそこ?

 

軽く調べてみる。

過去にワールドカップベスト16ってのがある。

この時の方が強くない?

 

聞いてみる!

 

(A氏)それよりも昔の話、まだ日本代表がワールドカップに出ることができなかった時のこと。

(そこそこってのはこのベスト16のときのことも含んでいるの、かも)

 

なるほど、

ワールドカップに出場すらできなかった時と比べて今はワールドカップに出られているから良い、と言うことだろうか。

 

確かに、あの最大級のスポーツの祭典であるサッカーワールドカップに参加できるということは盛り上がりの一つの大きな要因と言うことか。

ベスト16って成績も残しているし。

 

サッカー自体盛り上がり性の高いスポーツですしね、

団体競技であり、球技でもありますから盛り上がる要素は詰まっている。

(スポーツにおいて団体の球技は盛り上がるイメージ!間違ってたらごめんなさい^^;)

 

 

でもなー、日本代表弱いんだよねー

 

ワールドカップ参加国数、32カ国。

日本代表 FIFAランキング 60位。

 

うーんといった感じですね〜

アジア特別枠感もありますねー

(韓国代表 FIFAランキング 61位)

 

まあ世界大会ですから、

アジアも含めないといけませんししょうがないか、

ヨーロッパにはヨーロッパ大会がありますからね。

 

次回ロシアワールドカップに出場できない強豪

イタリア代表(FIFAランキング 19位)
オランダ代表(FIFAランキング 17位)2018/06

 

なんて悲惨な自体。

 

 

そこでもう一人サッカー経験者の人に質問。

 

日本代表ってサッカー弱いよね?

 

(B氏)あー弱いねー(笑)

 

おお!

親近感がわく!

人ってそんなもん^^;

想いにバイアスがかかっていて、その方面の答えが出ると気持ちよくなる!

 

 

(私)ワールドカップベスト16って時もあったよね?

 

(B氏)あの時は上り調子だったよねー、そのまま強豪国になれるかもなんて思ったけどね。

 

(私)今は落ちてる?

(B氏)うん、、、(笑)

 

(私)何笑ってるの?笑

(B氏)あと100年は無理じゃない? 世界とまともに戦えるようになるのは!

 

あーそれが言いたかったのね。

でもそこまで、、(((;゚Д゚))

 

(私)そこまで日本代表はだめ?

(B氏)多分!

 

B氏的見解

日本サッカーと世界のサッカーでは思想が違っている気がする。

それは

「世界のプレイヤーが死に物狂いでかかってくるのに対して日本の選手はスマートに振る舞おうとしてる!」

とかいうものでなくて、

サッカーに対する感覚が全然違うように見える。

 

例えば、世界はサッカーをやってるのに対して日本はホッケーをやっているような感じ。

(確かに、私がブラジルワールドカップで感じた違和感はこれか?何か違うことをやっているように見えた違和感)

 

さらにB氏

日本が悪いと言うことではないと思う。

日本人的性質でどうしてもホッケーをやってしまうんだと思う。

なぜか知らないけど。

だからちゃんとサッカーになるまでにはあと100年はかかるんじゃないかと思ってるよ。

 

続けてB氏

ホッケーしかできないならホッケーで勝てる戦術なりを考えればそれでもある程度戦えると思うけど、

「他のスポーツではやるじゃん、緻密系戦略、いずれ外国にパクられはするけど」

 

外国人監督しか使わないことからもわかるように、一生懸命サッカーをやろうとしてるんだよね、

だからだんだんと本来のレベル(60位)に落ち着いて来てるんだと思うな。

でも100年後を視野に入れて今特訓してるとも考えられるから、それはそれで。

 

 

 

 

目から鱗的見解!

この意見が当たっているか間違っているかはわからないけど、すっきるする主張でしたね。

ブラジルワールドカップの時に感じた冷めていくような感覚。

「これ見る価値あるの?」

がやっと報われた気分です。

 

だっていつまでもみなさん盛り上がっているんですもの。

 

 

そこで、先ほども出ていた、

思想とスポーツとの関係を自分なりに考察

 

思想とスポーツ。

一見結びつきそうにない概念ですよね、

 

逆に

政治とスポーツ、

ゲームとスポーツ、

戦争とスポーツ、

などはわかりやすいですよね。

 

思想とスポーツ、とは。

 

B氏の言う思想の違いは、サッカー対ホッケーの構図ですよね。

イメージしてるものが違うことの例えでしょう。

 

 

ではまず思想とはなにか、

自分がどうありたいかを考えること、になりますかね。ざっくりと。

尊厳、アイデンティティ、など。

 

自分は金持ちでありたい。

自分は愛に溢れていたい。

自分は人のためになることをして生きていきたい。

自分は楽しければ満足だ。

自分はなんとなく快適であればそれでいい。

・・・

 

そして

サッカーに対しての思想。

(サッカーに対する自分の存在意義、でもいいですかね)

 

ヨーロッパ

例)コラボレーションによるエクスタシィ、ゴールによって感じるカタルシス

 

南米

例)対戦型スーパーエンタテインメントショー

 

アフリカ

例)民族ダンス

 

中東

例)儀式(日本における相撲)

 

ジャマイカ

例)レゲエ(笑)

 

※ 全てイメージです^^;

 

そして

日本

例)スポーツ!スポーツマンシップ

 

日本が取り入れるべきはやっぱり「禅」ですかね。

でも無理か。

 

この前テレビのゴールデンタイムのバラエティ番組で、

何人かのお坊さんが面白おかしく仏教のことを紹介し笑いを取っているのを見て、

日本には宗教心が本当になくなってしまったんだなーと悲しくなりましたね。

俗物性が強すぎるんです。

 

 

ちなみに!

松木安太郎さんはありですよ!

よく、

うるさい!とか

ちゃんと実況やれ!とか

応援団長かよ!

とか耳にしますが、

我々素人からするとあれがわかりやすくて盛り上がるしいいんですよ。

 

サッカー通は松木安太郎を批判しがち、

サッカー素人は松木安太郎が良くてもなにも言えない。
(素人なのでよくわからないしでしゃばれないですよね)

そのような構図を感じます。

 

 

でもでも、

一人の天才が日本サッカーをガラリと変える!

みたいなことがあっても楽しそうですけどね。

100m 10秒の壁も破られたことですし。

あるいは一人の天才指導者が素晴らしい戦略を発明するなど。

 

その辺りは期待しつつ、今日は終わります(^-^)

 

こっちをそんなにジロジロ見る理由を教えてちょうだい!

 

触られているわけでもないのに、触られているかのような不快感。

 

知らない人にジロジロ見られるのって不愉快ですよね。

 

レンストランなどの飲食店に入り席まで歩いている最中、

我々が歩く通路の横に座るある人の顔がこちらを向きしばらく追いかけくる。

自動追従装置かのように首が動く。

感知できないけど遠くの席にもそういう人はいるかもしれない。

 

教室、オフィスなどで、

部屋のドアが開くと必ずそこを見る人、

前のドアならまだ自然だけど、後ろのドアが開いても必ず振り返る人、

そしてしばらく入ってきた人を顔で追いかける、

あるいは、元に戻らずそのまま後ろを振り向いてぼけっとしていたりしている、

一旦見てまたすぐ元に戻る人もいる。

 

「見ないでくれる⁉︎」

なんて思わず言いたくなります。

言えないですけど(T_T)

 

興味のある人をじっと見るのはわかります。

綺麗な女性が横切った、イケメンの人が歩いてくる、奇抜な格好の人がうろうろしている、など。

 

しかし明らかにただただ見ている感じ。

誰かれ構わず見ている様子。

 

ただ、動くものに反応しているようにも見えます。

動く同類と言った方がいいかもしれないですね。

散歩中の犬が、他の犬を思わずじっと見てしまうような感じで。

 

 

 

私は見ないですよ。

ジロジロ見られる不愉快さを知っていますし、

見てしまっていることを相手にさとられてしまうと逆に恥ずかしい。

見ている行為を見られている感じがするからです。とうの本人に。

↑よくわからないかな?^^;どうだろう。

 

でも

そもそもなぜジロジロ見られると不愉快なのか、

その論点も一つありますね。

(ここを掘ると話が複雑になりそうなのでまた機会があれば)

 

しかしながら、その一つの論点から切り込むならば、

ジロジロ見てしまう人は「他人にジロジロ見られても不愉快ではない」可能性がある、

と言うこともできますね。

それはそれで納得。

 

 

他人をじっと見ちゃう他の理由として、

 

自分がジロジロ見られちゃっている場合でも結局それに気がつけない、

という可能性、

すると自分が他人をジロジロ見ていても、その人がこちらを意識していることに気がつけなくなります。

まさか自分が見ていることを相手が気づいてはいないだろうと。

だって目が合ってないじゃん、

みたいな感じで。

 

そのような人は、

周りの人が今どのような行動をとっているか、

ということにあまり意識が行かない人かもしれませんね。

物理的に視覚に入っていない物事は存在していない感じで。

 

となると、

例えば

自分をフォーカスする幾つかのカメラ(自意識)のようなものがあるとするならば、

そのカメラの数がその人は少ないような気がします。

意識の範囲に広がりをもたせることができない。

 

パーソナルスペースもその意識のエリアの一つって感じがします。

 

相手の視点から自分を見てみる、

そのようなことも(良くも悪くもですが)できない人なのではないでしょうか。

 

するとやはり、

見られていることに相手が気がついていることに気がつかない。

不愉快になるかも!なんて感じることはもってのほか。

見られることに不愉快さを感じていることに思いを巡らせることなんて不可能でしょう。

 

 

ここまで書いて

ジロジロ見てくる人に対して世間の皆さんはどう感じてるのかをネットで探してみました。

 

すると見られて不愉快な思いをしてる人は少なくない数いるようで、

やはりなぜそのような行為に及ぶのか理解できないといった意見が多いですね。

 

人にされて嫌なことをわざわざする意味がわからない!

みたいな意見が多いです。

目があっても見るのをやめない人には殺意を感じると言う人までいたり。

実際過去に殺人事件が起きてますしね。

 

駅のホームに新しく入ってきた人を振り向いてまでじっと見ている。

職場で用もないのにやたら見てくるあの人。

家の中を覗き込んでくる近所のおじさん。

車の中から横切った人をずっと見ている。(よそ見の方が危険(((;゚Д゚)))

 

顔を向けてまで見るなよ!

って意見多いですね。

 

 

では、

ジロジロ見てしまう人はどう考えているのでしょうか。

気になりますね。

 

調べてみると、

「無意識でやっていた」が大半を占めています。

(過去形なのが一つのミソです。それは後ほど)

 

言われるまで気がつかなかったと言っている人が多数でした。

 

無意識なら仕方ないのかなぁと感じます。

これまでの生き方の問題ですからね。

言われて気がつき、直していけば良いのです。

 

でも、

ここからが面白いポイント!

 

言われて意識できるようなったのは良いのです、

しかし、

「それでも相手をじっとみることをやめられない」

みたいなのです。

そのような人も多くいるようです。

(あくまでネットを見た印象)

 

じっと見る行為が相手に迷惑をかけることだということまでは

相手に言われて理解できるようになるみたいですが、

それでもやめられないようです。

 

まあだからこそネットに書き込むなりで、世間に向けて悩みとして表現し、

私が目にするに至るわけですね。

 

無意識であり、たとえ言われても気にしていなければ、

自分が「見てしまう人」であるというようなことをわざわざ公言しませんからね。

これからもずっと人をジロジロ見続けていくでしょう(´д`|||)

 

ネットに書き込んでいる「見てしまう人さん」は

直したいという思いが強いように感じられます。

しかしそれでも治らないようです。

 

当人も悩んでいる、

そのような側面もこの問題にはあるということになります。 

 

興味深いですよね。

少なくとも悪意があるわけではないことはわかりますが。

 

 

ここで、

人を見ることに関して納得の意見を一つ

 

「人の顔は一番目立つ部分、そこを見てしまうのは自然なことで、

でもそこを見ないようにするのは、見たいのを我慢しているからなのではないか」

 

確かにそれはありますね。

見たいのを我慢している。

それを無意識的にできるようになっているのが一般的な人なのかもしれませんね。

多分。

そもそも人に興味のない人もいるでしょうけど。

 

すると警戒心的な心理もあるのかもしれませんね。

悪者かかそうでないをまず顔を見て判断しようという感覚。

 

「他人の評価が気になるから人をじっと見てしまう」

と言う意見もありました。

 

これもある種警戒心からなのかもしれません。

見ない方が(印象悪くならないから)いいんじゃないかと我々は思いますが、

そういうわけでもないようです。

無意識の要素も絡んでいるかもしれません。

 

わかっちゃいるけどやめられないってことですかね。

 

でもまあここまで書いて感じたことは、

ジロジロ見てくる人はどこに行っても必ずいますし、

それをどうすることもこちらにはできないということ、になります。

(根本を解決してどうのこうのと言う意味でね)

 

Aさん、「なに見てんだよ!」

Bくん、「なにって言われても僕にもわかりません(T_T)」

って感じですから。

 

なぜジロジロ見られると不愉快に感じるのか、

の方を考えるのが現実的かもしれません。

 

見るという行為は、非物理的ですが、

何かしら具体的な接触のような感じがします。

 

この感覚、何なのでしょうか。

 

 

Googleマップとオスプレイと退屈

 

最近Googleマップが不調で困っています。

 

不調と言えばよいのか、不具合と言う方が正しいのかわかりません。

なぜならネット上で同じような不具合報告を探しても見つからないから。

 

私だけのトラブル?って感じなのですね。

 

ところでどのような不具合かと言いますと、

Googleマップには「保存」という機能がついていまして、

マップ上のある場所について、その場所に関する情報を自分で書き込んで、タグ付けのようなことができるのですが、

その機能が使えなくなってしまっているのです。

 

行きたいお店などをジャンル分けしていていざというときに検索をかけやすいようにしていたのですが、

検索はできます、今回の不具合は「保存」というアクションができなくなってしまっていて、せっかく見つけたお店にタグを貼れない状態になっているのです。

 

これでは発見したお店も数日経てば確実に忘れ去られてしまうという私の記憶の特性といいますか、一般的な特性といいますか、

いずれにしろいざというときのレパートリーを減らしてしまっている状態なのです。

 

困ってます。

 

しかし、ここから話を別の方向へと展開させて行きます。

まあそうです。

困ったなーだけではブログは成立しません。

 

さて、

このトラブルで思うことをが一つあり、

さらにその一つから思うことが一つあります。

 

ではまず一つ目。

 

Googleに頼りきっている自分に気がつき、

そしてもしGoogleがなくなってしまったらと思うと、軽くぞっとしたのです。

マイマップが全てパー( ;´Д`)

 

AppleIDやAndroidのアカウントに関してもそのようなことを度々耳にしますね。

自国が破綻するより、Appleがなくなる方が怖いなどと。

 

それらIDに個人情報や、所有データなどをふんだんに詰め込んでいますから、これがなくなるととても困るということです。

生活に直結します。

 

これに関して今までは笑い話として受け流していたのですが、

今回のGoogleマップの件で身近に感じることができ、その怖さみたいなものを経験したわけですね。

確かになーって感じで。

 

そして、

思うこと二つ目が「自分の身に起こってみないとわからない」です。

 

想像力が低下しているのかもしれません。

自分の身に置き換えて考える能力の低下感を感じてしまいます。

 

これは自分だけのことだろうかと考えたのですが、

おそらく大多数の人が、

やはり物事、自分の身に起きてみなければわからないような気がします。

 

具体的な事例をあげますと、

沖縄の米軍基地問題がありますね。

 

沖縄の人はオスプレイの恐怖に怯えています。

これは大変なことのように感じるのですが、

県内外関係ないところに住んでいる人たちは何も感じていないように見えます。

 

そして昨今(2018/04/07付近)

東京の横田基地に米軍のオスプレイが配備されるのではないかということになっています。

 

多分、いやきっと

この一件でいかにオスプレイが近くで飛び回っている現状が恐怖なのかを

この度やっと理解できた人は少なくない数いるのではないかと、

そんな風に思った次第。

 

そう、

自分の身に起こってみなけりゃわからないわけですよね。

想像力です。

我々は想像力が欠落しているのです。

 

インスタ栄えがどうとか、相撲協会がどうとか言ってる場合ではないかもしれませんよ。

考える力が徐々に失われていき、

いつしか動物的な人間になってしまうかもしれません。

そんな風に感じてしまいます。

 

ところで、

 

なぜ人々は想像力が低下していっているのかを考えてみると、

(低下しているであろうという前提です、実際はわかりません)

 

一つの要因として、

テクノロジーの進歩に伴った娯楽の発達ではないかと思います。

テクノロジーは積み重ねがききますので、時代が進むにつれて発展はして行きますね。

 

しかし、それと同時に人々は「飽き」あるいは「退屈」から解放されるわけです。

VRゲームなどもその一つ。

 

そして「退屈」というある種の「拷問」から人は想像力を養うのではないかと私は感じます。

そんなところ。

 

「退屈」と言えば、

退屈には何段階かのレベルがあるようですね。

人に待たされているときのような単純な退屈から、生きることへの退屈感まで、

 

までと言いましたが、どこまであるのかはちょっとわかりません。

もしかしたら、

宇宙の外を考えることの「退屈」があるかもしれませんね。

↑ 難しいことを言ってるかもしれませんので、は?と思っても大丈夫です。

理解できなくても大丈夫です。

不思議な「退屈」の哲学的なものがこの世にはあるみたいです。

 

楽しいけどどこか退屈だなーみたいなやつもそう。

感じたことのある人、いるのではないでしょうか。

 

退屈とはとても奥が深いものなのかもしれませんね。

 

 

ここまで書いて急に、、

私は言いたいことがなくなるという現象に襲われています。

厳密に言えばまだあったような気がするのですが、忘れてしまいました。

 

でも、この現象に襲われる書き手の人って結構いるのではないでしょうか。

キーボードを打っている間に頭に浮かんだことを忘れてしまっているみたいな。

 

では、ここまで書いてタイトルを決めます。

 

Googleマップオスプレイと退屈」

 

では(o'∀')