モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo

相手に好かれたいという欲求、それは自分には関係ない

 

ある特定の相手に気に入られたいという欲求、

 

それがが満たされなかったとき。

 

そのき人はどのような気持ちになるだろう。

 

 

当然、

マイナスの感情が沸き起こるのかもしれない。

 

悲しい

不甲斐ない

遣る瀬無い

後悔の念

 

 

それらが転じて

 

自分への怒り

相手への怒り

他の誰かへの怒り

自分への嫌悪感

相手への嫌悪感

何かしらに対する嫉妬心

 

などが沸き起こるかもしれない。

 

 

さらにそれらが転じて

 

落ち込む

諦める

次の策を練る

など

 

一例として上記ような流れがあるはず。

 

しかし

 

その相手の立場になって考えた場合、

 

その彼(彼女)が私に興味を持つかどうか、

 

それは彼(彼女)の問題であり、私には関係のない話である。

 

と言うこともできるのではないだろうか。

 

 

ではそれはどのような感じか。以下

 

 

その相手に自分を置き換えてみる。

 

ある人に好意を寄せられている、

しかし自分には全く興味がない。

 

だからと言ってその相手が嫌いなわけでもない。

(あるいは嫌いかもしれない)

 

いずれにしろ自分には何も影響を与えない。(ものとする)

 

自分にとって

ある日、美味くもマズくもない一つのパンを食べるだけのような、

そのようなものである。

 

そのなんでもない日常に介入したって・・・

そのなんでもない日常に介入されたって・・・

 

 

あるいは、

ある人に好意を寄せられている、

 

自分もその相手に興味がある、

 

相手をポジティブに評価することができる、

すると相手は喜ぶ。

 

しかし相手が喜ぼうが自分には関係ない。

 

自分がそれに興味があるだけなのである。

お互いに、互いに興味があるだけのことである。

 

自分は自分なりの基準で相手に興味があるだけのことである。

 

そして、

いつか興味を失うかもしれない。

お互いに。

 

 

興味を失ってしまえば、それはある日のパンと同じことになる。

 

それの連続である。

 

 

確かに

気になる相手に気にされていないことは悲しいことであろう、

 

しかし

 

相手の立場になってみれば、

 

それは自分には関係のない問題であることも見えてくる。

 

ただ味のしないパンを食べているだけなのだから。

 

「時間ないしこれでいいや」と透明な袋に入ったコッペパンを食べているだけなのだから。 

 

何気ない日常を過ごさせてあげましょう。

 

 

簡単に言えば、

ストーカーとは全く逆の意識感覚、

なのかもしれない。

 

ストーカーとは、

相手の意識のコピーを自分の中に作り、勝手に形を変えてしまう幻覚行為である。

 

 

 

とは言え、

 

多分、きっと、好かれたい人に興味を持たれなければ

やはり人は落ち込むのだろう。

 

恋などしてしまった日にゃあ

相手の食べる一つのパンに特製のジャムを塗ってやりたくもなるだろう。

 

バルミューダで焼いて食べさせてくなることだろう。

 

そのような刺激の中に身を置いているのが人間なのだろう。

  

なんの目的かしらぬが。

 

 

どうしても自分が相手によって心地良く、気持ち良くなりたければ、

相手を振り向かせる努力をすると良い、

と、

そういうことなのだろう

が、

 

それはものすごく個人行為(自己中)のような気がして、

ときに汚さを感じてしまう。

 

相手に対して純粋に親切にし、

さらにその他の人に対しても純粋に親切にし、

 

その上で意中の相手がそんなあなたを好いてくれるなら

 

それは一つの成果というよりも、

 

ただ一つのラッキーが起こったとし、

それを受け入れればよいだけのことではなかろうか。

 

でも

 その上で相手がコッペパンを食べているようなら、

 

それは単純にコッペパンを食べるということなのだろう。 

 

 

人工知能に問う「AIくん、君はなんのために生きている?」

 

人工知能についてふと思ったこと

 

シンギュラリティが起こり、人工知能が人間を凌駕したとき、

 

AIに対して

「君はなんのために生きてるの?」

 

と質問してみたらどうなるのだろう。

 

 

 

そもそも人はなんのために生きている? 

 

 とりあえずググってみます。

 

「人はなんのために生きているのか」Google

 

回答

 

幸せの追求です。
(では幸せとは何か、なぜ幸せを追求するのか、が書かれていない)

 

そんなことを考えてはいけません。それは人生の主導権を放置しています。それでは生きづらくなります。
(自分を人生の主人公とし、主体性を持って生きればそのうな疑問は湧かないと言うことのようです)

 

ワクワクしていないときにそのようなことを考える。誰にも必要とされなくなったときに考える。
(その他、なぜそのようなことを考えてしまうかということの羅列)

 

「人はなんのために生きているのか」→ 目標がないと生きていけないんだよ。

(目標を持つことの大切さをずらずらと書かれている)

 

現実逃避である、目の前の問題から目を背けるためにそのような思考に陥るんだよ。

(・・・)

 

本当の自分を知るために生きているのである。

(それで、本当の自分を知ったらどうなるのかが書かれていない、そもそもそれを問うているような気がする)

 

 

Google検索の1ページ目に出てきたブログなどでは上記のようになっています。 

 

答えらしきものはありません。

それどころか論点をすり替えて語っているものがほとんどでした。

 

まあ、そもそも視点が違うのかもしれません。

 

純粋な疑問でこの「人はなんのために生きているのか」を考えてはなく、

「生きていて辛くなるのはどうしてなのか」や

「健全に生きて行くためにはどうしたらいいのか」

という視点でみなさん書いているのかもしれませんね。

 

それにしてもこうも、純度の低い回答ばかりされるとストレスたまりますね。

もっとページを下っていけば良い答えがみつかるかもしれませんが。

 

しかし

そもそもこの手の質問に対してこれまで回答らしきものを聞いたことが私はありません。

 

自分の満足いく答えと言うことなるのでしょうが^^;

 

では ↓

 

「なんのために生きているのか」の答えはない?

 

「人はなんのために生きているのか」

 

そもそもこの文章(意味性)がおかしいんじゃないかと私は思ってしまいます。

 

ではどこがおかしいのか、

 

具体的にどこがおかしいのかということは言えません( ;´Д`)

感覚的なものです( ;´Д`)

 

何かが成立していない。

わからないけど何かが成立していない。

人間の見えない部分にこの質問文の矛盾のようなものが潜んでいるのではないかと感じたりもして。

 

例えば、

人間の「上位階層」の存在があったとして

 

なぜ「1+1」は「2」になるのだろうと考えている「人間」に対して、

 

その上位の存在は

「1+1」は「3」だけどなー、なんで間違ったことでずっと悩んでいるだろう。

と思う。

 

みたいな感じで、

 

「人はなんのために生きるか」

のそもそもの構造がおかしいのかもしれないと感じます。

 

よくわからないかな^^; 

 

 

あるいは、

文章の構造は正しいとしても、

その答えを導きだすためには意識の次元を高くしなければならないのではないか。

 

例えば、

四次元空間で考えていても答えはみつからなくて

五次元、六次元、、、と高次元の世界観の中に答えはあるのではないかと。

 

なので

 

「答えがない」のではなく、

その問いに直面する感覚を我々人間は持ち合わせていない。

と言うことになります。

 

(正確に言うと「意識下では」持ち合わせていない。になりますがそれは後ほど)

 

でも

持ち合わせていない感覚の問いをしてしまうところに人間の面白さみたいなものを感じますね。

(私も度々この疑問に陥ります、生きているのが辛いとかではなく純粋な疑問です)

 

ではここで 

無理やり答えをひねり出すとすると

 

「死にたくないから生きている」

 

になりますかね。低次元的に考えるとね。

 

そして「せっかく生きるなら快適な方がいい」ということであるからして、

一般的な「幸せになるために生きてる」みたいな答えに行き着くわけですね。

 

 

先ほどの「上位概念存在」をとし、

その「神のご意向によって人間は生きている」と考える集結方法もありますね。

そうすれば簡単ですよね。

 

無神論者も、神ではなく何かしらの上位概念の存在の意思を受け取って生命活動しているのかもしれません。

 

 

では

 

人口知能AIくんの自己存在意義はどうなるだろう

 

遠くない将来シンギュラリティが起こるとよく耳にしますね。

 

人工知能が人間を上回り、

あるいは双方の立場が入れ替わるのではないかなどと心配の声が聞かれます。

 

そういうことが起こるのかもしれないと私も思います。

あくまで一可能性としてですが。

 

しかし

そうなった場合AIに問いたいこと

 

「AIくん、君はなんのために生きているの?」

 

 

私予想、

AIくんは一生懸命考えた挙句、頭から煙を出して壊れるんじゃないかな。

 

なぜかと言うと、

 

人間に生み出されたAI、

いくら自己学習型でどんどん進化しいていけると言えど、人の意識下に生み出された存在、

 

人間の意識レベルの最高のパフォーマンスをすることができても、

 

人間の無意識レベルでのパフォーマンスは不可能ではないだろうか、

 

人の意識で感知できる最高次元の四次元空間で生み出されたAIは、

思考感覚が四次元空間を超えることができないのではないだろうかと思います。

 

四次元を圧倒的に最適化したのがAIではないだろうかと私は思っています。

 

そして四次元空間にはその答えはありませんから

思考が永久にループし、しまいには壊れてしまうのではないだろうかと思うのです。

 

人間に雇われているうちは「人に命令されているから」と言う答えは出せますが、

人を上回ってしまった場合、その代わりになる答えは導き出せないのです。

 

 

人間は四次元以上の高次元の感覚を持っています。

無意識の領域ですね。

(人の無意識領域に高次元的感覚が備わっているという、私の仮説)

 

だから

「そんなこと考えなくていいんだよ!」

「なんとなくでいいんだよ」

「幸せになるためだよ」

「楽しむためだよ」

じゃあ死ねよ

などといった漠然とした答えでやり過ごすことができる。

 

要するに「無意識さん」が

「意識くん」には理解できないから答えを感情的感覚に変換し、わかりやすくして出力しているのではないかというふうに感じます。

 

だから人間の感情は不思議がいっぱいなのではないかと思ったり。

 

なので

人間の無意識下で生み出されたAIは五次元以上の高次元思考ができるかもしれませんね。

だけど無意識下でAIの開発なんて無理ですからね。  

 

 

人工知能AIにとって人間が神である

 

そうなるとAIの生きるすべは、

その上位概念として、人間を立てなけれいけません。

 

我々人間が神(神的存在、無意識)に存在意義をゆだね、思考停止させるように。

 

人間の喜ぶように振る舞うことこそが人工知能AIの存在意義になるのです。

 

全ての判断基準は人間のご意向になります。

 

それを前提として憲法なり法律を作らなけれなりません。

 

 

 

ここで感覚に彩りを^^ ↓

 

1000年後にタイムスリップ!

 

俯瞰して地球を眺めて見てください。

宇宙の外から俯瞰して地球を眺めてみるのです。

 

人工知能に占拠された地球です。

シンギュラリティが起こり、人間と人工知能の立場が入れ替わり、人間が滅ぼされた地球。

 

アンドロイドたちが永遠と最適化された生活しています。

壊れたら修理し、新しい個体が欲しくなったら製造します。

毎日新しいソフトウエアにアップデートします。

 

どうでしょう、

「こいつらいつまでも何をやっているんだ?」という気にならないでしょうか?

  

でも、

このようなことをうだうだ考えていると我々人間もAIだったりして、

なんてことも思いますね。

 

 

意味の意味ってなんだろう

 

ここまで書いて思ったことが一つ、

「意味」ってなんでしょうか。

「意味」という概念自体、幻想かもしれません。

 

意味を放棄して生きてみるのもありかもしれませんね。

新たな感覚に出会えるかも。

神に頼らなければ。

 

 現時点での私の感覚の話でした。

 理屈に穴があるような気がして仕方がないですけど、その場合はご容赦ください^^;

 

 

 

結構苦手?仕事コミュニケーションで汚染される思考

 

仕事でコミュニケーションに使ったエネルギー

 

ここ一週間結構喋りました。

内容としてはおしゃべり的会話です。

仕事でね。

 

なんやかやで普段の三倍以上話したかな。

そういうときもたまにはある。

プロジェクトによりけり。

 

普段使ってない脳の部位をフル稼働させた感じ。

脳トレしたような感覚。

疲れますよね。

 

コミュニケーションというものをがっつり意識した感じの一週間。

生産活動に注ぐエネルギーよりもコミュニケーションに使うエネルギーの方が多いくらい。

(まあこれも仕事のうちではありますが)

 

日本人はシャイで口数少ないとかよく言われるけど、結構おしゃべりです。

 

多分、アウエーだと急に物怖じしだすってことなのかもしれませんね。

ホームとなると急に流暢に喋り出す民族。

まあ別に変ではないか。

 

 

やっぱりみんな喋りたい?

 

世の中喋りたがりの人って結構いるんだなと感じる今日この頃。

 

多分、会話コミュニケーションというものは人を気持ちよくさせる。

 

テンションが上がると他人と関わりたくなる。

 

他の人とうまく繋がることで出てくる快楽物質がるのでしょうね。

 

 

 

あるいは、

 

気まずくならないために喋ってる感もある。↓

 

 

親しくない人とのコミュニケーションの苦痛

 

しかしながらあまり面識のない人との会話はどうでしょうね。

 

楽しめる人もいるだろうし、苦手という人も多いはず。

 

短時間なら楽しめるけど、長時間となると苦痛になってくるという人もいるはず。

 

 

気まずくならないために喋り続ける人もいる。

仕事雑談においてそういう人がいると結構助かるときもありますが

「今は静かにしていようよ」と思うこともある。

 

でも喋れるってことで色々な場面でその種の気まずさをクリアーすることができますね。

間を持たすための技術

 

しかも続けることによってだんだんと慣れてきて

少ないエネルギーでもそれが可能になってっくるはず。

(私がそう思うだけですが)

 

するとその類のコミュニケーションも楽しくもなってくるのだろうと感じます。

 

悪くない能力ですよね、、、、一見

 

 

 

 

親しくても、面識があってもコミュニケーションを取りたくない

 

たとえ親しかろうが、そこそこの知り合いであろうが仕事で雑談はあまりしたくない!

このようなパターンもあるはず。

 

そんな人もいるだろうし、そんな時もあるでしょう。

 

「時間の無駄だし必要以上に話さなくてもいい」や

「そんなうわべだけの会話をしてなんの意味があるの?」や 

「毎日毎日同じ人とそんなに喋ってよく飽きないわね!」

 

など思っている人も少なくないはず。

 

100パーセントではありませんが、

私もどちらかと言えばこの部類に属してしまいますかね。

 

 

ただ↓

 

会話コミュニケーションがうまく成立すると心地よい

 

この感覚は否めない。

自分の言ったことが相手に共感を与え、

相手の喋ったことに自分が共感を示せれば、

これはなかなか良い気持ちのするもの。

 

特にあまり面識のない人に対してはその反動やギャップも手伝って

気持ちよさのゲージはより上がるし、新しい人生の扉を開いたような感覚にもなる。

 

 

多分、

会話コミュニケーションにおいて、

定型的なセンテンスなりワードなり、質問事項なり、思考の仕方なりを

パターンとしていくつか頭の中にストックしておけば、

全くの他人相手でもある程度の日常会話は楽にこなせるのだろうなと感じます。

 

これが定着すれば、

さらにコミュニケーションのレベルをあげ、

より楽しさを演出できたり、より相手の心を開かせる術を取得したりと

より相手との信頼関係を築けたりすることもでき、

そしてそれが人生をおうかするためのものとして機能するだろうと感じます。

より良い人生を歩めそうな気がします。

 

 が

 

しかし

 

本当にそれでいいのかとも考えてしまう。

 

 

コミュニケーションで汚染される思考

 

確かにコミュニケーションがうまくいくと気持ちがいい。

社会において自分の位置付け感覚を増幅させられる。

 

ただ、気持ちの良いものには副作用やリスクがつきものですよね。

 

「酒、タバコ、覚せい剤、ギャンブル、恋愛・・・」

 

 

では端的に言ってしまうと

 

自分がなくなっていく感覚がある

 

 

会話とは多かれ少なかれ相手の顔色を伺うもの、

ある程度相手に合わせた内容や、

ある程度の思考の段階(思考のレベル)で会話を行わなければなりません。

 

最初はこれが疲れます。

 

しかし、上でも書きました、

慣れてくると少ないエネルギーでそれが可能になります。

楽にこなすことができるようになります。

すると楽しいものです。

(難しいものほど慣れれば楽しい)

 

しかし、

楽なった状態、楽しめる状態が怖いなと感じるところなのです。

 

なぜなら、

もはやそれは自分ではなくなっているから。

 

自分ではなくなっているから少ないエネルギー(慣れ)でその作業をこなせるということなのですが、

(言い方を変えると、本来の意識とは別の脳の場所に意識を常駐させている状態)

 

それはどういうことか↓

 

 

内向きに思考していることのアウトプットは難しい

 

「考え事」と言ったら何かに悩んでいるようですが、

それとは違い、

内的思考と言いましょうか、自分の中で思考しているモノ

(どれだけの人が普段それを行っているのかはわかりませんが)

 

それ(考え事)を外に向けてアウトプットするのは容易ではないと感じています。

 

もちろん内容にもよりますが、

個人的にマニアックになればなるほど人に伝えるのは難しくなってきます。

 

もし他人が理解できる言葉に変換できたとしても、

それをそのまま喋ってはダメで、

内容をさらにオブラートに包んだり、

一般的解釈した形で出力しなければ変人扱いされます。

 

その作業はなかなか骨が折れます。

 

(もともとマニアックを共有している者同士は別です)

 

 

 

仕事で久しぶりに一定期間面識の少ない人と雑談をしてみて、

 

私が普段よくする「考え事」をあまりやらなくなっていることに気がつきました。

 

とにかくインプットした情報をいかにおしゃべりネタに変換できるか、

ということに思考回路を使っていました。

思考のエネルギーや時間をそれに使っていました。

 

そしてそれが当たり前になれば、

晴れて私はおしゃべりな人間になっているのだろうなと思いました。

しかもそれが難しいものではないと感じてもいます。

 

すると私は深くものを考えない浅い思考の人間になるのかもしれません。

 

クリエイティビティが発揮されなくなるのではなかろうかと感じます。

 

 

ただ、バランスの取れた人もいるのだろう

 

もしかするとお笑い芸人に多いのかもしれません。

おぎやはぎ矢作兼などは特に思う)

 

他にも普通に存在するのかもしれません。

 

要するに二刀流ですね。

 

他人との雑談やおしゃべりも得意であり、

なおかつ、深い内的思考もする、

 

あるいは、

マニアックな内的思考をいとも簡単に一般レベルの内容に変換し、

楽しい内容を作り出せる人がいるかもしれません。

 

まあいるのでしょう^^;。

 

目指すべきはここなのか、、、

でも難しそうだなぁ。

 

 

クリエイター(芸術家)はお喋りが苦手?

 

クリエイティビティな人や、芸術度の高い人はおしゃべりが得意ではなく、

創造性がない人や、チャラい人はおしゃべりが得意、

 

みたいな分け方がなんとなくできるような気がします。

 

前者はオタクで、後者はリア充みたいな。

 

どちらかといえば私は前者の方が好ましく感じますが、

やはり両方バランスの取れた人の方が良いように感じています。

(この「良い」の定義にもよると思いますが)

 

なぜかというと、

どちらが正解なのかがわからないからです。

人生において。

(「人生」の定義にもよりますが)

 

感情論的に言いますと、

オタクであり、リア充をバカにする視点もあまり好きではないし、

自分の頭で何も考えていないようなチャラい人もあまり好きではない、わけです。

私的に。

 

それぞれ何かを見落としている感じがするから。

 

 

単純に2分割してしまうのもどうかと思いますけども、、^^;

深い内的思考にもアウトプット向きのものから

アウトプットに不向きのものまで様々ありますし、

チャらくても何も考えていないわけではなく、

むしろそこに哲学のようなものが存在していたりするのかもしれませんし。

 

 

ちなみに

「教養はハッタリだ」と言った言論人がいましたが、

言い得て妙だなと感じます。

何か言いたいか、、

知的で教養のある いかにも感じの良い人でも、

想像力が全然なく自分の頭で考えることができない人もいるということです。

逆に言うと、

想像力がなくても教養力があれば、

できた人間に見せかけることができると言うことですね。

すでに世に出ている多くの意見を引用し、

組み合わせを変え反復していればそれなりに知的に振る舞えます。

 

社会的に優秀でも頭空っぽの人はいるということです。(言い過ぎ?^^;)

 

 

仕事でコミュニケーション能力は大事かどうか

 

仕事によるのでしょうとしか言いようがありませんよね。

 

長々書いてきましたが、ここで言っているコミュニケーションとは、お喋りや雑談のことになります。

ビジネスシーンでの仕事とは少し離れた内容の会話のことです。

コミュニケーションを別のニュアンスで考えていた人はごめんなさい^^;

 

確かにおしゃべりができないときつい職種はあるかと思います。

例えば取引先の人と食事を含め一定期間共に行動することがよくある人など。 

 

しかし、そのような状態って結構無駄も多いんじゃないかと思います。

生産性が下がってしまう。

 

現状、そのようにしなければならないなら、

根本を見直すことも大事になってくるのではないかと思います。

 

そのお喋りをしなければならない時間のいくらかを仮眠に当てるか、

パソコンなどを使って仕事をするなどということを相手と合意形成するなど、、

(内容が漠然としすぎ?^^;) 

 

 んー

でもお喋りが好きな人もいるし、

それが楽しいなら別にそれもいいのかなあとも思っちゃいますね、

楽しく仕事をするっていいものですからね。

そういう人生の楽しみ方、生き方、ワークライフ、それはそれでいいのかもしれない。

 

でも中にはお喋りを望まない人もいるから難しいところ。

 

 

自分はどう働きたいか、そしてそれは可能なのか、、 

不可能ならどうするべきか、

この辺りの検証や努力が必要になってきますね。

 

 

 

サッカー日本代表が得た貴重なサンプルと規律維持の難しさ

ワールドカップサッカーロシア大会見ました

 

久しぶりの代表のサッカー観戦。

まともに見たのは約4年ぶりかな。

 

燃えました!

面白かった!

楽しかった!

 

コロンビア → セネガルポーランド → ベルギー

 

この順番でワクワク度合いが上がっていきましたね。

まあ試合の順番です!

 

前置きはさておき、

今回の記述の要点を並べますと、

 

  1. ポーランド戦の時間稼ぎについて
  2. 戦略、戦術を最後までやり通す難しさ
  3. 日本チームが得た貴重なサンプル
  4. ナショナリズムをあおられた

 

 

ポーランド戦の時間稼ぎからより楽しくなってきた

賛否両論色々ありましたが、

率直に述べると私はポーランド戦の時間稼ぎを見た瞬間、

日本代表のサッカーがより楽しくなってきました。

 

私が代表の試合に重点を置いていたのは負けない、敗退しないことだったんですね。

そのことがわかった試合でした。

 

と言うのも、

試合翌日の報道を見るまでは気がつかなかったのですが、

私は皆が賞賛しているものだと思っていましたが、

あの戦法を批判する人がたくさんいたんですね。

 

「日本人として恥ずかしい」みたいなことで叩いている人が多くいて、

正々堂々を信念にサッカーを応援している人が多くいるんだなと感じました。

 

それで一つ腑に落ちたこどがありました。

 

以前にも投稿したこの記事に対するアンサーが示されたような気がします。

 

この記事では、

なぜ弱いのに皆さん日本代表サッカーを応援するのだろう、ということを書いていますが、

ポーランド戦の時間稼ぎに対する批判でもあった

「負けても、予選敗退しても堂々とした試合をしてほしかった」と言う多くの意見。

これでわかったこと、

 

日本代表は弱くても良いんだ、だから弱くても応援するし盛り上がるんだ

 

ということですね。

 

私はもっと緻密な戦術でもって負けないチームを作ってもらいたく思う次第^^;

そしてそれが日本にはできると思っているだけになおさら。

このあたりの違い。

 

 

だけど

戦略、戦術をやり通すのは難しいんだなとベルギー戦で感じた

 

決められたことをやり抜く、信念を貫き通す、

そして(戦略的)秩序を維持すること、

やはりこれが難しい。

 

 

ベルギー戦で2点を先制したあと、

素人の私でもわかるほどに、パスの方向が明らかに変わりました。

今までは後ろに送っていたはずのボールを、横か前にパスするようになったのです。

 

浮き足立ってる感丸出しでした。

やばいと思いました。

 

私が今回の西野サッカーで感心していたところは、

ポーランド戦で見せた徹底した戦略です。

 

その徹底さが今までなかったが故に負けてきたんです。

 

今までは調子良いときもあれば悪いときもある、

みたいな安定しない状態を代表サッカーは繰り返してきたのです。

 

2点入った段階で徹底した秩序維持を実行してもらいたかった。

前半戦のような淡々とした戦いをしてもらいたかったところ。

 

しかし、

なぜそのように日本の戦略秩序が崩れていしまったのか

 

 

 

日本サッカーが得た貴重なサンプル

 

初めての自体に冷静になれなかったのだと私は思います。

選手、監督の体が異常事態を感知したのだろうと。

 

ワールドカップベスト16の試合において、

前評判のかなり高いベルギーあいてに2点をリードするなんて誰も予想しませんよね。

 

あり得ない状況に立たされて本来の思考回路がうまく機能しなくなったのだと思います。

 

そして私が思ったことは、

「世界の強豪国はこの試合展開、こういった試合感覚を何回も何回も経験しているのだろうなぁ」でした。

 

要するに試合展開のサンプルとして

サッカー思想、身体感覚に組み込まれているのではないかと、

あるいは物心ついたときから。

 

ワールドカップみたいな大舞台において2点のリードは安心できない、

あるいは、

2点取られたってまだまだチャンスはあるんだ。

みたいな感覚が体に備わっているのではないか。

 

2点目を取られたときのベルギーの監督の表情がカメラに抜かれてましたが、

頭を抱えてはいたものの、そこまで落ち込んではいませんでしたから。

 

さらに

サンプルと言いましたが、

この試合展開サンプルを強豪国になればなるほどたくさん持っているのではないでしょうか。

 

例えばブラジルやフランスなどは、

ワールドカップやその他大舞台での、

負けパターンや勝ちパターンがサッカー思想としてふんだんに持っているのではないのではなかろうか、

そう思いました。

 

なので、

日本は今回負けましたが、この一つのサンプルを思想に刻んで、

次に生かせれば良いのではないだろうかと感じました。

いくつかのサンプルがたまるまでは時間がかかりそうですね^^;

 

 

 

ナショナリズムがあおられ、負けて少し安心

 

試合が進むにつれて熱心に日本を応援するようになってました。

楽しかったです。

良い経験をありがとうと言ったところですね(^-^)

 

負けてしまったのは残念ですが、

でもこのまま負けていなかったら少し怖かったなとも思いました。

 

あり得ないけど、

このまま勝ち進んで優勝でもしちゃったなら、

 

世界に対して

日本人としての誇りが向上したでしょうし、

日本人としてのアイデンティティの確立性も向上したでしょう。

 

しかし負けてふと思ったこと、

我々日本が勝っていればベルギーは負けています。

日本人は喜び、ベルギー人は落ち込みます。

 

結局は喜ぶところがあれば、落ち込むところがあるわけです。

 

我々は同じ人類だと考えた場合、

どちらに転んでも、トータルはイーブンなんだなぁということ。

 

じゃあどこに勝てば正しいのか、

何に勝てば正しいのか、

 

正義はどこにあり、悪はどこにあるのか。

 

試合、ゲーム、勝負事、戦争、、、

 

負けたことでやっと、これはただの真剣なゲームなんだ、

終わればお互いに褒め称え尊重しなければならないんだなぁ

と感じました。

 

もし弱小の日本が優勝でもしてしまったなら、

天狗になっていたかもしれません。

 

徐々に徐々に強くなっていきましょう。

 

そういう意味では勝ち進んでいるロシアは少し怖い^^;

 

「孫をつくることが一番の親孝行だよ!」なんて言われた日にゃ・・

  

先日、とある高齢者の方に

「孫を産んでくれることが最大の親孝行だよー」

なんて言われました。

 

それほど孫は可愛いものだと言うことでしょう、

その現れである表現だったのだろうと思います。

 

しかし、

 

これを親に言われたらたまったもんじゃないな!とも感じたしだい。

 

言った高齢者の方も他人である私だから言えたのだろうし、(多分)

特に深い意味はなく、ただのおしゃべりであったのだろうと思いますが。

 

 

ではなぜ私がこれを親に言われたらたまったもんじゃないと感じたか、

 

別の言い方をしてみると、

 

親が子に言うべき発言ではない、と感じたということになります。

 

 

孫を見るために子供を産んだの?

 

と言われかねない。(例えばですが)

 

するとどうでしょう、

言われた親は立場ないですね。


「ああそうだよ」とは言いにくい(´д`)

 

 

こういう親の思想だと、

 

(一例)

お金も時間もたくさん使い親の世話をしているが

子供を作らなかった、あるいはできなかった長男

 

それに対して、迷惑ばっかりかけて親に何もしてこなかったが子供を3人産んだ次男

 

この場合、親からの評価と感謝は次男へ向き、さらに遺産は孫のいる次男へ全部いく、

なんてことも起こりかねない。

 

 

そもそも親孝行と言う言葉は親が使うべきものなのか

という疑問もあります。

 

ほぼほぼの可能性で親のエゴで子供は生まれてき、

親の洗脳を受けて育っていきます。

 

そんないたいけな我が子に親孝行まで求めるのか!

とも感じますけどね。

  

 

とは言っても孫を見たいと思う親の気持ちもわかる

 

批判的なことを述べてきましたが、

人が孫の顔を見たいと思うというものは不健全なことではないだろうし、

 

いくらうだうだ言っても、事実、人は孫の顔を見たいもの!

 

 

 

ではなぜ、親は孫の顔を見たいと思うのか

 

動物に備わる子孫繁栄の本能というものがまず先に思いつきますが、

これは一つの大きな仮説としておいておき、今回は別の視点から考えたい。

 

さらに、

私は親ではないのであくまで、子供すらいない人間の単なる想像としての考えであることを了承していただきたいと思います^^;

 

 

ゴールとしての子供、孫、子孫 

 

子孫を残すということは人生における一種のゴールの形ではないか!

 

もちろん、子供に関しては独立させるまでであり、

孫の誕生はその集大成となる出来事になります。

 

人間とは目標やゴールが必要な生き物ではないかと感じます。

その理由の考察は今は横に置いておき。

 

その目標やゴールを達成したからといって何かが起こるわけでもありませんが、

目指すものがなければ生きることに疑問を感じ、生きづらくなってしまいます。

 

 

さらに人間には自分が生きた証となるものを残しておきたいという欲求もあるように思います。

自分と強く関わりのあるものをこの世界に生み出し、残していきたいわけですね。

(その理由についても今は考えませんが)そのように感じます。 

 

そうなると子供を作り、さらにこれにも子ができるということは欲求を大きく満たすものと思われます。

 

 

一見無意味な仕事でも

 

世の中、無意味であろう仕事が多々あります。(無意味が悪いという意味ではありません)

公共的に完全に無意味なものから、

個人的に的に無意味だと感じるものまで様々あります。

(こういうことを書くと全ての物事が無意味なものに感じてきますがこれも横に置いておきます)

 

これらの仕事をしている人はある段階で、

(あるいは社会的に意味のある仕事をしていても)

自分の仕事に対して自己疑問に陥らないのだろうかと思うことがあります。

ふと、

何で自分はこの仕事をしていて、最終的には何になるのだろうみたいな疑問ですね

 

しかし 

 

自分に子供がいるならば、

 

その経済活動で一応お金を獲得し、

子供に満足のいく生活をさせているのなら意味のある営みになってくるわけですね。

 

そしてその子供がきちんと孫をつくることになったあかつきには、

自分の人生間違っていなかったなと大いに思えるわけです。

 

その満足感

「孫をつくることが一番の親孝行だよ」

と言う言葉になるのかなと思いました。

 

 

 しかし人生や仕事に意味を考え出したらキリがありませんよね (´д`)

 だけど考えることで何かしらの社会的、人間的軸が作られている気もします。

 

「何かしら」が何であるかというのもまたよくわからないですけどね。

 

 

死んだはずの人が蘇るとびっくりするよね。あなたはどこへ行ってたの?

 

2018年6月の出来事。

死んだはずの男性がひょっこり現れる。

 

このニュースを伝えている最中、

アナウンサーの生島ヒロシはしばらく

「なんと言っていいかわからない」と言いながら泣き笑いをする。

朝のラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」にて。

 

まるで放送事故でしたね、

笑いが止まらなくて番組がしばらく進行せず、

この時来ていたゲストコメンテーターの女性は

「そんなんになっちゃったら私困っちゃうわ〜」なんて言って確かに困っていましたけど、

 

彼は 

死んだはずの人がひょっこり現れた様子をリアル想像したのでしょう、

確かに気持ちはわからないでもない。

色々な感情が入り混じりそのような現象になったと思われます。

 

私も以前、近い親戚の葬儀の際、

通夜にて、肉体的に全くダメージのない故人の亡骸を見て、

「いきなり起き上がったりして、、、もしそうなったらどうなるだろう」

というようなことを想像をしていたことを思い出しました。

それはそれは親族一同腰が抜けるだろうなと思ったのを思い出しましたね。

 

これに近い事態が今回起こったということになります。

死んだはずの人がそこに生きて立っている。

生島ヒロシが泣き笑いが止まらなかった感じもわかります。

 

 

遺体を見ると色々思う

 

まあそれはさておき、亡くなった人の亡骸を見ていると色々と感じることがありますよね。

 

体はそこにあるのだけど、意識がない。

意識がないと言っても、気絶している種類の「ない」ではなく、

もうそこには「ない」という感じ。

 

物質(遺体)はそこにあります。

しかしその中身(存在)がそこにない状態。

 

特に親しかった人に関しては特別な感覚が生じます。

 

見慣れたその顔がそこにあるけど、そこに中身がない

そこに「いる」のに「いない」

 

不思議ですよね。

「ある」と「ない」の混在状態。

この「ある」と「ない」の概念的な感覚を認識するのが難しい。

 

すると

 

では、

私たちはそもそも生きている人に対し、

なにを持って「その人がある」「その人がいる」としているのだろう、

そのようにも感じました。

 

動いて喋っていればそこには「ある」ということになるのですが、

そこに潜む観念的なモノは何なのだろうかと思ってしまうわけです。

 

 

「ある」「ない」の乖離(かいり)にはレベルがある?

 

例えば面識のない人に関して。

この人が亡くなったとしても「ある」「ない」に乖離(かいり)は起きません。

「どこどこの誰々さん亡くなったみたいだよ」

と言われても全く関わりのない人なら心を揺さぶられることはありませんね。

なぜか自分がその人の通夜に行くことになり遺体を見ることになった場合でも、

多少はあるかもしれないけど親しい人ほど大きな乖離は起きないであろうと思います。

 

多少面識のある人の死

んー、

これもそこまで乖離は起きないような気がします。

遺体を見ることで生命の不思議は感じるかもしれませんが。

 

 

芸能人

影響力のある芸能人が亡くなったとき、

多くのファンの人たちが泣いているのがよく報道されますね。

あれはどのような心理なのでしょう。

私には経験がありませんのでわかりませんが、

芸能人とファンとの関係性は、教祖と信者の関係性に似ている部分もありますから、

自分の生きがいにしていた対象のものが消滅した悲しさ、

といった感じでしょうか(あくまで一つの理由としてですが)

 

そこに「ある」「なし」の乖離はあるのでしょうか。

想像するにあまりない、

それは芸能人という存在自体が架空性の強いものだから。

「虚構」が「なくなる」って感じですかね。

 

 

親しかった人、近い間柄の人

上で述べた通り、

「ある」「ない」の乖離が起きます。

 

 

 

なぜ関わりの深い人であればあるほど乖離が起こるのか

 

そりゃそうだろ、近い人に対してはそうように感じるだろ!って感じにもなりますが、

やはり不思議な乖離が存在します。

 

じゃあなぜ近い人に関してはこの不思議な感覚が存在するのか。

 

私が思う一つのことは、

 

相手(故人)が自分のことをどれだけ認識していたか、

そしてそれを自分がどれだけ認識していたか、

が、キーになっているように思います。

 

すると

何を持って相手を「ある」としているのか、

それは

相手(故人)の中に自分がどれだけ存在していたか

になるように感じます。

 

自分がその人の中に「ある」

の「ある」とも言えるのではないでしょうか。

 

 

 例えば、

道を歩いている全く面識のない人。

その人には人格はなく、機械仕掛けで動いているだけだとしたら、、、

なにも感じません。

どちらでも私には影響はない。

意識のない機械であろうが、 あるいは完璧な人格者であろうが関係ない。

 

関わりのある人が道を歩いている、

関係性が深ければ深いほどそこに「ある」が存在してきます。

そこに自分を投影しているからのような気がします。

 

 

人は自分を映す鏡ともいいますが、

 

自分を認識してるであろう人がいなくなるということは、

鏡がなくなる、

自分(の一部)が見えなくなるということにもなるのではないでしょうか。

 

そして

その投影の象徴が体躯、特に顔になります、

私たちは顔(物質)などを見ることでその存在(鏡)を認識します。

 

体躯、顔がそこにあるのに意識が「ない」

「ある」はずのものが「ない」

そこに「ある」はずの自分のかけらが見当たら「ない」

そこに自分を投影しようにも、あるはずの鏡が見当たらない。

鏡らしきものは「ある」のに。

 

さらに

メタファーがない、

とも言えそうであり、

だから、

こうも言えそう、

存在はメタファーである。

 

やはりそこで感じる認識に違和感を感じざるを得ないです。

 

 まさに亡骸といったところ。

 

 

 

では意識はどこへ行ったのか。

 

次に思うことは

「なくなってしまったものはどこへ行ったのか」です。

 

この非物質的、形而上学的なものと言いましょうか、

とても認識しにくい概念。

 

 今までは体に繋がっていたであろう意識、

これは消滅してしまったのでしょうか。

 

そもそも意識が抜けてしまった状態を死とするならば、

既に亡くなっていますから、そこに意識はない。

 

消滅したのかどこかへ行ってしまったのか。

謎です。

 

でも謎であるならば、

消滅の可能性もあれば、どこかへ行ってしまった可能性も両方ありますね。

両方の仮説が立てられます。

 

あるいは、

高次元化したか。(そこにありつつ形を変えた)

 

 

いずれにしろ人間的感覚では認識しようがありませんね。

 

 

人としてのゴール

 

亡くなってしまった親戚を見て私は

人としてのゴールを迎えたんだなと思いました。

 

誰もが到達するであろうこのゴール。

それまでになにを成し遂げようが関係ありません。

 

 

若くして亡くなった人に対して人々は

「勿体無い、まだやれることがあったのに」などと言います。

しかし私が瞬間的に思ったことは、

人より早くゴールテープを切ったんだな、でした。

 

いずれ私もこのときが来るのだけど、この人は昨日がそのときだったんだな、と。

 

この世での出来事が重要だと考えるのはこの世に生きているから。

高次元的に考えると、形を変えたに過ぎない。

のかもしれない。

 

「なくなる」の本当の意味を私たちは知らない。

 

 

 

 

「もうゆるしてください」5歳女児の文章能力からみる子供の天才性

 

最近(2018年6月)の事件報道より。

 

「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」

 

5歳の少女が親に向けて綴った文章。

 

どんなに優れた文学よりも心に刺さりますね。

 

この少女は虐待により死亡。

のちに発見されたノートには

 

 もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおします

 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします

 

と書かれていました。

衝撃的です。

まず感じるのは悲しみと両親への憎悪です。

被害を受けた女児は、我々の想像をはるかに超えるであろう生きた心地のしない毎日だったことでしょう。

 

しかし少し落ちつたあとにこれ(悲しみや怒り、憎悪)とは別に、

いくつか感じたことがありましたのでそれを書いていきたいと思います。

 

 

高いレベルの言語能力

 

虐待をしてしまう親からは想像できない言語表現力です。

とても5歳とは思えません。

 

5歳にしてまともな文章を作れることもしかり、

さらに自分の意思をはっきりと表現できていることにも感服します。

 

何が悪いのかを自己分析し、改善点をあげています。

今後どうするべきであるということを明確に示しています。

 

親に指示されて反省文的に書いた可能性もありますが、
そうすると「許してください」と書くかは疑問ですので、
ここでは、ある程度自分の意思で書いたとして考えていきます。

 

生きていればとても立派な人間になっていたであろう可能性を想像し、

惜しい人材を失ったなと感じました。

 

 

稀にいる高い言語レベルで話す子供

 

テレビなどを見ていてもごく稀にすごく高度な会話する子供を見かけます。

 

テレビだけではなく実際に街中でも見かけることがあります。

 

見かける度に、この子の親はすごく高度な対話でもって子供に接しているんだろうなと漠然と思っていました。

 

後天的なものだと思っていたわけですが、

この度、それはもしかすると先天的要素もあるのではないかと感じました。

 

なにせ虐待をするような親の元にいた子なのですから。

 

 

先に謝ってほしい

 

ここで、私が体験した高度な言語表現をしていた子供のエピソードを一つ。

 

ショッピングセンターで買い物をしていたときに見かけた親子の会話です。

 

母親と4歳くらいの女の子のやりとり。

 

私が見たときには二人は喧嘩の真っ最中でした。

途中から見たので原因はわかりませんが。

 

娘 「ママが謝るべきだと思う」

母 そっぽを向き商品を眺めている。

娘 「ねえ謝ってよ」

母 そっぽをむく、そして移動

娘 追いかける。

娘「ねえ、なんで謝ってくれないの?」

母 そっぽを向いている。

ーーこのようなやりとり、少し省略ーー

「もしかしたら私が悪いのかもしれない、ママに嫌な思いさせたかもしれない、でも今はママに先に謝って欲しいの。そしたら私も素直になれるから、そしたら私も謝るから、今はそうして欲しいの。そしたら全部解決するの。ママが先に謝ってくれたら私の気持ちも晴れるから。今日は私の誕生日だからそうして欲しいの」

 

 

これも衝撃的でしたね。

 

親の方が子供だな、と思う以上に子の方が大人すぎるなと思うしだい。

母親はまだ30歳前後でしたし、若さゆえ意固地になってしまうこともあるでしょう。

子供相手にどうだろうと思うところはありますが、まあ普通のような気はします。

 

 

しかし子供の方がすごすぎる

 

お互いに素直になれない、意固地になって譲歩できない感覚を完全に読み取っています。

そしてこの膠着をどうすれば打開できるかを提案しているわけです。

4歳くらいです。

 

私はこの後二人を見失い、しばらくしてまた再会しましたが、

そのときは二人は手を繋いで歩いていました。

娘の方が母親に楽しそうに甘えていました。

わだかまりが溶けたあかつきにはこのような楽しい時間が待っていることまで

娘は予測していたのだろうと推察します。

なにせ誕生日なんですからね。

 

これだけ口が達者でも子供は母親に甘えたいんですね。

 

でも母親はこんな我が娘に恐怖のようなものを感じていたりして。

自分より大人な娘。

わかりませんが。

 

 

 

やはり先天的なのか

 

上記のようなエピソードを書いていてもやはり

この言語表現能力は先天的に備わっているものなのかもしれないと感じます。

状況表現能力と言ってもいいかもしれませんが。

 

見る限りにおいて、

母親の方は何か言ってはいましたが、記憶に残るような高度な言葉は発してはいなかったと思います。

普通のことを言っていたような記憶が残っています。

「なんで私が謝るのよ」みたいな感じですね。

 

天才的です。

 

 

話を変えて↓

 

虐待は連鎖する

 

話を戻し、虐待死の事件について。

きっとこのニュースを見た人のほとんどがカメラに映された親の実際の姿を見てさらなる怒りを感じたことでしょう。

「やったのはこの親か!」みたいな。

 

私も感じました。

実物を見るとリアリティが増して、より感情移入しやすくなるのでしょう。

 

 

しかし、少しして思うこと。

きっとこの母親も親に虐待されたのかもしれないな。と。

そのような雰囲気を感じてしまいました。

 

虐待を主導した父親は再婚相手です。

母親は自分の身を案じ、夫にさからえず一緒になって虐待をしてしまったということでした。

よくあるパターンですね。

 

母親に対して「そんなに自分が可愛いか!」などの意見が見受けられますね。

しかし、

存在を認められてこなかった人は認めてくれる人には、死活問題的に絶対嫌われたくないもの。

夫の、少なくともその一側面は自分を認める存在であり、

すると夫は自分の存在を定義する存在となります。

 

この母親は、自分とは何か、どのように自分は存在していくべきなのか、

などというアイデンティティのようなものが育っていなかったかもしれません。 

 

(あくまで個人の憶測です(´д`))

 

 

根底には貧困の問題?

 

児童相談所の対応がまずかったんじゃないかという意見もよく聞きます。

もちろんそれもあるとは思いますが、行政的な場所に批判を与えるとすれば、

貧困層が増え続けている日本の状態に真剣にメスを入れる気概を感じない政府側にではないかと感じますね。

 

経済的な不自由を強いられ、生きることに余裕がないでいると、

なんの為に子供を作り、なんのために子供を育てていくのかを考えることができません。

答えはないかもしれませんが、考えることに意味があります。

余裕があっても考えない人もいますけどそれはまた別の話として。 

 

憶測の憶測ですが、

そのような貧困的要因もこの事件にはあったのではないかと思います
(事件を起こした母親の家庭環境)

もし違っていたとしても別の場所で貧困による虐待が起こる可能性は十分にあります。

 

政府の言う少子化対策は奴隷をたくさん作りたいと考えているように感じます。

 

しかしこれからはソフトの時代、奴隷を量産したところでAIには太刀打ちできませんし、

虐待因子を増やすことにも繋がります。

 

誰もが精神的余裕を持ち、人間的知性、芸術性などを十分に養える環境づくりをしていかなければ、

日本、あるいは世界は終わるような気がしてなりません。

文明が滅びます。

 

因みに、AIには文明は作れないと思います。

 

 

 

ノーベル文学賞にはこの文章を

 

今回亡くなってしまった5歳の女の子が残した文章。

 

倫理的に実際に受賞するのは難しいかもしれませんが、

もしかするとノーベル文学賞に匹敵するくらいのポテンシャルを秘めているかもしれません。

このような記録が残っていて本当によかったと思います。