モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo(沖縄)

問題から自由でいられるために人は考える。

とある問題から自由でいるためにそれについて考える

 

ある悩み事があり、その悩み事について考えている間はその問題からは自由である。

 

大学の文学部の存在意義について語った大阪大学教授「金水 敏」さんの考え方より、私の解釈を交えて。

 

その考えることをサポートする役割として文学はあり、貢献できるはず。

そのために文学部は決して不必要な学部ではないのである。

そのような話の流れ。

実社会においてなかなか役に立たない文学部は無くてもいいんじゃないかという世の風潮に対抗する意見。

 

知識人の「山田五郎」さんの解釈の一つとして

「死にたいと考える人がいたとして、その死について考えている間は、ある意味その死からは自由であり、考えなくなったとき、その問題に捕まり飲み込まれてしまう」

(2017/07 荒川強啓デイキャッチ、ボイスのコーナーより。)

 

考えることにより問題を対象化、客体化させる

 人生の岐路に立たされたとき、それを有効に利用することができる。

 

考えても簡単に答えは見つからない問題も多いでしょう。しかし

その問題を考えている間は、その問題を対象化し、客観的に捉えることができる。それは、その問題から自由でいられる、ということでもあるのです。これは、人間に与えられた究極の自由である、という言い方もできるでしょう。人間が人間として自由であるためには、直面した問題について考え抜くしかない。

 

(金水 敏さんの言葉より。)

 

問題(困難)の例として

恋人にふられる、仕事に行き詰まる、親との不和、配偶者との不和、子供との不和

親しき人との死別、つまらない老後、自らの死。

等々をあげています。

 

 

 人間に与えられた究極の自由、考えを巡らせること、巡らせられること

考えることでその問題から「自由」でいられる。それは人間の究極の「自由」

なんとなく元気になれそうなお言葉。

ありがたい。

でも私的には自由の解釈が難しいところ。

 

ここでは二つ自由という言葉が出てきてます。

この二つの自由は少し意味合い、段階が違いそうですよね。

人は自由になれる自由を持っている。みたいな。

 

これを語った当人も稚拙な文章になってしまったと謙遜しておられます。

この辺りの曖昧さを自分で指摘したのではないかと考えられます。

でも生きるための何かしらのヒントとして有効に機能する言葉ではないでしょうか。

 

なので適当にいじくり回してみますよ。

 

人間は本当に自由を求めているのだろうか

自由という言葉のマジック

「自由」という言い回しには心をグッと掴まれますよね。

ポジティブな表現の一つになるでしょう。

「あなたは自由なんです」などと言われたらグラっときちゃう人もいますよね。

 

元気になれる言葉として自由は有効に働きます。

 

実際に苦難に直面しているとき、その苦難から自由になれることはとてもいいことであることには間違いありません。

自由が良い事として機能しています。

この場合の自由は簡単ですね。

窮屈なものからの解放を意味します。心地がいいです。

 

この自由は先ほどの言葉の一つの自由の意味になります。

考えることでその問題から「自由」でいられる。それは人間の究極の自由

 

ここでは多分問題を抽象化することを

自由という言葉を使っていると取ることができそうですね。

抽象化とは簡単に言うと「一歩引いた視点で見る」という感じ。

 

抽象化を自由というポジティブでわかりやすい言葉で表したということになりますね。

 

親しい人が死んだとき、どうして人は死ぬのだろうなどと考えを巡らせていれば、

親しい人の死に引き摺り込まれ、自分の元気が損なわれることを避けることができます。

「なんで死んじゃったのよ」「なんであなたが死ななきゃならなかったのよと」

と堂々巡りの思考に入っていくことを防ぐことができます。

 

考えることで親しい人の死という苦難から自由になれるということですね。

そして文学的な力がそれを手助けしてくれるということです。

 

 

ただ自由にはレベルがあると私は思うのです。

先ほどの言葉のふたつ目の自由は高いレベルの自由ということになります。

考えることでその問題から自由でいられる。それは人間の究極の「自由」

 

人間は本当に究極の自由を求めているのだろうか

この問いに関する結論として

「人間は究極の自由は求めていない」になります。

 

人は多少のストレスや縛りやルールがあってやっとその対象を楽しむことができます。

絶対に負けない野球チームがあったとして、そこのファンには楽しみはないでしょう。

 

生きる場合においても同様、何かしらの縛りやルールがなければ、うまく自分の存在を成立させることができません。

幸せとはこうあるべきだという、形式がなければ生きる方向性を見いだすことができませんし、

やってはいけないことがなければ、何をすべきかわからなくなります。

 

ちょとした不自由があり、ある程度の自由があればそれで丁度良いということになります。

 

決められた形式に疑問を抱き、考える質を上げてしまうと人は生きることが楽しくなくなってしまいます。

なのである段階からは考えません。問題化しないということです。

考える質を上げることはさらなる自由を目指すことになります。

その自由は必要ないということになります。

 

「家庭を築き、子供を育てることがなぜ幸せなのだろう」

「そもそもなぜ人は幸せにならなければならないのだろう」

「なぜ生物は子孫を繁栄させなければならないのだろう」

「なぜ自分が存在するのだろう」

などなど。

 

考えなくなる怖さ

 

簡単に答えの出せる問いから、

「自分とはなんだろう」などの決して答えの出ない問いがあります。

 

「自分とはなんだろう」と考えている間は自分という存在からは自由になる

ということになりますね。(余談)

 

ここで

簡単な問いをレベル1

答えの出ない問いをレベル10

とします。

 

適度な丁度良い自由を獲得するための問いをレベル7ぐらいだとしたとき、

近頃はこの数値が下がってきているように感じます。

一昔は7だったが今では5になっているような感じで。

標準値が下がってきてはいないだろうかと感じます。

 

 

それは昔と比べて今の時代は退屈さがなくなったからじゃないかと考えられます。

人は退屈さを感じたとき、レベル数値の高い自問自答のような問いを思い浮かべるのです。

 

文明の発達により、エンターテイメントのレベルが上がり、人々は日常の退屈さからどんどんと解放されていますね。

 

エンターテイメントが豊富にあり、さらに手軽に楽しめることによって人は退屈性を失い、

自分とはなんだろうなどという疑問を抱いている暇がなくなってしまいます。

そのような疑問は愚問となってしまうのです。 

そんな答えのないことをうだうだ考えるより、楽しいことなんてたくさんあるしそれをやってればいいんだよ。と。

 

そのようにして人は人についてを考えることを放棄していっています。

 でも一方で楽しければ別にそれで良いじゃんとも思いますよね。

一生楽しければそれでいいじゃないかと。 

 

しかしその先に見えるのは人間の動物化のような気がします。

 悪知恵の働く人たちに簡単にコントロールされてしまう人間になってしまいそうな気がします。

考えることをしなくなってますからね。

数値がどんどん下がっていきます。

すると結局はエンターテイメントの質も落ちますね。

 

あるいはそうやって文明は滅びるのかもしれませんね。

 

考えることの究極の自由

人間に与えられた究極の自由とは、人間の尊厳のことを言っているような気がします。

答えの出ない問いであっても、他に楽しいことがあっても、

不毛なことであっても考えることで人間の質を落とさないようにしていくことができるのかもしれません。

 

考えることでいろいろな問題から意識だけも自由になり、

問題に巻き込まれ人間性が失われないように距離をとっている、ということになるかもしれません。