モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo

でもそれって幸せなの?は崩壊している

頑張っていることは、それだけで完結している

 

頑張っている、努力している。

そのように自負する人がして、そのように思う自分もたまにはいる。

これは特に仕事面での話です。

 

(ここで言う頑張っている努力しているはとくにプラスの意味ではなく、ただその状態であるというだけであり、美徳について言っているわけではない)

 

頑張るのは、努力するのは、基本的には何かに向かってのこと。夢や希望、あるいは幸せというゴール。

 

しかしその過程であるはずの頑張りや努力が日常化してしまって、頑張るために生きている、努力するために生きていることになってしまっている場合が少なくないサンプルとしてあるでしょう。

 

目標や、夢や希望が漠然としたところから始まっている場合など特にそうなりやすいのではないでしょうか。

 

(余談)

でも基本的に人はそうなのだろうとは思う。

少なくとも私たち日本人は、大人になれば働かなければならないという意識があり、大体おいてその前提から夢が始まるわけであり、具体的な夢が見つからなくても我々は労働環境に身を置くことになる。

 

しかしまあ具体的な夢や目標がなくとも、なんとなくいつかは幸せになりたいくらいの意識は持っている人は少なくないのではないかと思う。

 

 

競争を勝ち抜き、トップを目指す!  

努力家のAさんは一流企業に入り人一倍の努力を重ね、順調にキャリアを積み上げていた。

パワハラモラハラ、セクハラ(女性の場合)、残業と、会社からのブラック的な扱いにもめげることなく日々一生懸命頑張っていた。

 

努力をやめた同僚のBさんはその会社を辞めてもっとゆるい会社へと転職する。

Bさんはステータスを維持するために身を粉にして働くことに疑問を感じ、新たな生き方を求めたのだった。

会社内部は競争すべき、戦うべきという皆同じ意識だったから、その会社自体を辞めるべきだと判断したのである。

 

三年が経ち、あるときAさんとBさんは二人でお酒を飲むことになる。

 

Aさんは同じ会社でまだ同じように頑張っていて、Bさんは生活のランクは落ちたもののなんとなく気楽に生きていた。

 

「CさんとDさんもそっちの会社辞めたらしいけど、やっぱりそっちの会社で働くことって大変なのかな」

とBさんは訊いた。これはAさんに対しての揶揄も込められている。

(あなたまだそんなことしているの?)

 

「二人とも何か目標があるってことで辞めたみたいだけど、結局は成果出てないみたいだし、ただの脱落組じゃないかなと感じるね」とAさんは言う。

 

そのAさんの返答にBさんは少しカチンときた。

自分はCさんやDさん側だという意識があったし、未だ同じところにいるAさんを見下したいという感覚も無意識下にはあったし、自分の生き方を認めてもらうために持ち出した話題でもあったからである。

この後に自分はいい感じに暮らしているという自慢話をさりげなくしようと思っていたのだった。

 

「でも、色々ときつい職場(ブラック企業)で働くよりも、結果成功しないにしろ、新しく目標を持っていくっていうのは悪いことではないと思うけどな」

とBさんは言った。

 

「いや、高い目的意識があれば、色々きつくても乗り越えられるはず。わざわざ辞めなくてもうちの会社は副業が禁止なわけでもないしね。

まあでも時間の制約があるから副業は難しいかもしれないけど、でもまあ、CやDがどういう目的を持って辞めていったかはわからないけど、うちの会社がきついことも理由にあるとすれば、あまりいい辞め方な感じはしないかな」

とAさんは言う。 

 

「きついことは理由に入れたらだめ?」とBさんは言う。

 

「うん、そう思うね。確かに嫌なことは多いけど、ハラスメントにしろ、過剰労働にしろ、それを乗り越えることでの成長や、裁量権の獲得や、立ち場の向上も見込めるわけだし、辞めて他のことをするってことはこれらを諦めるってことだよね」

とAさんは言う。

 

Bさんは思う。

Aはそのような生活をいつまで、どの段階まで続けるのだろうかと。社会的立ち位置を気にした生き方になんの価値があるのだろうと。

 

そしてBさんは言う。

その生き方って幸せ?

 

言ってしまった。

もしその先に大きな目標があったとしても

「そんな生き方ってどうなのよ、間違ってるでしょう。先の何かも大事だけど、それ以上に今が大切じゃない。」

と思ったわけです。

 

その生き方って本当に幸せ?の後には何もない

 

Aさんはその会社で頑張っています。頑張りきれています。その生き方が本当に幸せであるかどうかの議論は、実は論理の飛躍になり、繋がりがありません。

頑張っている、努力している、から幸せへの矢印は出ていません。

 

ただただAさんはステータスの高い会社で頑張って働いている、その自分を維持している。だたそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

その世界でAさんは呼吸をしているし、うまく呼吸できているのです。

 

違う生き方を選んだBさんはAさんの会社の空気を知っているし、別の場所の空気も知っています。

それだけに、別の風もあるよということ教え、納得してもらいたいと思うかもしれませんが、Aさんには関係のないことなのです。

 

Bさんはそれって幸せ?という抽象的なセンテンスを持ち出して勝手に自分の優位性を保とうとしているわけですが、Aさんには効果はありません。

 

その質問をされたAさんは思考の流れを変更することになります。

今の会社で存続することができている、

ということは世間的にある程度認められた存在である 、

親戚の間でも鼻が高いし、親も喜んでいる、

給料もいい、

将来的にもなされるべき大きな仕事もある(だろう)、それが今後の目標にもなるし、生きがいにもなる(はず)、

子供にもいい教育を受けさせることができる。

ets...

 

といった感じで論理を展開させ、

よって自分は幸せと言えるのではなかろうか。

という結論をようやく導き出すでしょう。

 

いくらでも自分は幸せであるというところへ帰結させることが可能です。

 

ただ、私が言いたいことは、Aさんにとってその会社で働いていることと幸せであるということには繋がりはないということです。 

 

幸せなんて抽象的すぎる

 

幸せとは何だろうなどと深く考えていたら極端な話、人は何もできなくなります。

抽象的であり、感覚的なものですから。

それに伴い、それって幸せ?という疑問は追求が難しいものとなります。

 

幸せなんて人それぞれである。と私は言いたいわけではありません。

 

幸せであるかについての議論は間の何かをすっ飛ばして行われることが多く、共有すべき前提がないと噛み合わないものであるし、前提が共有されていたらいたで、内輪話になってしまって結局は共感して終わるだけで、自分の価値観を強化するだけです。

 

前提の共有とは、

例えば、女は30前後で結婚して子供が二人くらいるのが幸せだろうということをお互いに思い合っている。

など。

その前提を持っている人の間ではうまく話が進みますね。

 

ここがずれているとお互いに認め合っている中でない限り話はもつれます。喧嘩になったりもしますね。 

それって幸せ?と言う質問はそのもつれに飛び込むようなものです。

 

 

まとめ

同じ形をした人間でも、内側で考えていることや、感覚的なことはまるっきり違っているところが不思議ですね。

しかし、それでも我々は同じ空間で生きていることもまた不思議ですね。

多分フロイトが発見した無意識という領域がまだまだ広大なのでしょう。

きっとその中にこの不思議が眠っています。