モノミオン ラボ

モノミオン ラボ

monomion Labo

死んだはずの人が蘇るとびっくりするよね。あなたはどこへ行ってたの?

 

2018年6月の出来事。

死んだはずの男性がひょっこり現れる。

 

このニュースを伝えている最中、

アナウンサーの生島ヒロシはしばらく

「なんと言っていいかわからない」と言いながら泣き笑いをする。

朝のラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」にて。

 

まるで放送事故でしたね、

笑いが止まらなくて番組がしばらく進行せず、

この時来ていたゲストコメンテーターの女性は

「そんなんになっちゃったら私困っちゃうわ〜」なんて言って確かに困っていましたけど、

 

彼は 

死んだはずの人がひょっこり現れた様子をリアル想像したのでしょう、

確かに気持ちはわからないでもない。

色々な感情が入り混じりそのような現象になったと思われます。

 

私も以前、近い親戚の葬儀の際、

通夜にて、肉体的に全くダメージのない故人の亡骸を見て、

「いきなり起き上がったりして、、、もしそうなったらどうなるだろう」

というようなことを想像をしていたことを思い出しました。

それはそれは親族一同腰が抜けるだろうなと思ったのを思い出しましたね。

 

これに近い事態が今回起こったということになります。

死んだはずの人がそこに生きて立っている。

生島ヒロシが泣き笑いが止まらなかった感じもわかります。

 

 

遺体を見ると色々思う

 

まあそれはさておき、亡くなった人の亡骸を見ていると色々と感じることがありますよね。

 

体はそこにあるのだけど、意識がない。

意識がないと言っても、気絶している種類の「ない」ではなく、

もうそこには「ない」という感じ。

 

物質(遺体)はそこにあります。

しかしその中身(存在)がそこにない状態。

 

特に親しかった人に関しては特別な感覚が生じます。

 

見慣れたその顔がそこにあるけど、そこに中身がない

そこに「いる」のに「いない」

 

不思議ですよね。

「ある」と「ない」の混在状態。

この「ある」と「ない」の概念的な感覚を認識するのが難しい。

 

すると

 

では、

私たちはそもそも生きている人に対し、

なにを持って「その人がある」「その人がいる」としているのだろう、

そのようにも感じました。

 

動いて喋っていればそこには「ある」ということになるのですが、

そこに潜む観念的なモノは何なのだろうかと思ってしまうわけです。

 

 

「ある」「ない」の乖離(かいり)にはレベルがある?

 

例えば面識のない人に関して。

この人が亡くなったとしても「ある」「ない」に乖離(かいり)は起きません。

「どこどこの誰々さん亡くなったみたいだよ」

と言われても全く関わりのない人なら心を揺さぶられることはありませんね。

なぜか自分がその人の通夜に行くことになり遺体を見ることになった場合でも、

多少はあるかもしれないけど親しい人ほど大きな乖離は起きないであろうと思います。

 

多少面識のある人の死

んー、

これもそこまで乖離は起きないような気がします。

遺体を見ることで生命の不思議は感じるかもしれませんが。

 

 

芸能人

影響力のある芸能人が亡くなったとき、

多くのファンの人たちが泣いているのがよく報道されますね。

あれはどのような心理なのでしょう。

私には経験がありませんのでわかりませんが、

芸能人とファンとの関係性は、教祖と信者の関係性に似ている部分もありますから、

自分の生きがいにしていた対象のものが消滅した悲しさ、

といった感じでしょうか(あくまで一つの理由としてですが)

 

そこに「ある」「なし」の乖離はあるのでしょうか。

想像するにあまりない、

それは芸能人という存在自体が架空性の強いものだから。

「虚構」が「なくなる」って感じですかね。

 

 

親しかった人、近い間柄の人

上で述べた通り、

「ある」「ない」の乖離が起きます。

 

 

 

なぜ関わりの深い人であればあるほど乖離が起こるのか

 

そりゃそうだろ、近い人に対してはそうように感じるだろ!って感じにもなりますが、

やはり不思議な乖離が存在します。

 

じゃあなぜ近い人に関してはこの不思議な感覚が存在するのか。

 

私が思う一つのことは、

 

相手(故人)が自分のことをどれだけ認識していたか、

そしてそれを自分がどれだけ認識していたか、

が、キーになっているように思います。

 

すると

何を持って相手を「ある」としているのか、

それは

相手(故人)の中に自分がどれだけ存在していたか

になるように感じます。

 

自分がその人の中に「ある」

の「ある」とも言えるのではないでしょうか。

 

 

 例えば、

道を歩いている全く面識のない人。

その人には人格はなく、機械仕掛けで動いているだけだとしたら、、、

なにも感じません。

どちらでも私には影響はない。

意識のない機械であろうが、 あるいは完璧な人格者であろうが関係ない。

 

関わりのある人が道を歩いている、

関係性が深ければ深いほどそこに「ある」が存在してきます。

そこに自分を投影しているからのような気がします。

 

 

人は自分を映す鏡ともいいますが、

 

自分を認識してるであろう人がいなくなるということは、

鏡がなくなる、

自分(の一部)が見えなくなるということにもなるのではないでしょうか。

 

そして

その投影の象徴が体躯、特に顔になります、

私たちは顔(物質)などを見ることでその存在(鏡)を認識します。

 

体躯、顔がそこにあるのに意識が「ない」

「ある」はずのものが「ない」

そこに「ある」はずの自分のかけらが見当たら「ない」

そこに自分を投影しようにも、あるはずの鏡が見当たらない。

鏡らしきものは「ある」のに。

 

さらに

メタファーがない、

とも言えそうであり、

だから、

こうも言えそう、

存在はメタファーである。

 

やはりそこで感じる認識に違和感を感じざるを得ないです。

 

 まさに亡骸といったところ。

 

 

 

では意識はどこへ行ったのか。

 

次に思うことは

「なくなってしまったものはどこへ行ったのか」です。

 

この非物質的、形而上学的なものと言いましょうか、

とても認識しにくい概念。

 

 今までは体に繋がっていたであろう意識、

これは消滅してしまったのでしょうか。

 

そもそも意識が抜けてしまった状態を死とするならば、

既に亡くなっていますから、そこに意識はない。

 

消滅したのかどこかへ行ってしまったのか。

謎です。

 

でも謎であるならば、

消滅の可能性もあれば、どこかへ行ってしまった可能性も両方ありますね。

両方の仮説が立てられます。

 

あるいは、

高次元化したか。(そこにありつつ形を変えた)

 

 

いずれにしろ人間的感覚では認識しようがありませんね。

 

 

人としてのゴール

 

亡くなってしまった親戚を見て私は

人としてのゴールを迎えたんだなと思いました。

 

誰もが到達するであろうこのゴール。

それまでになにを成し遂げようが関係ありません。

 

 

若くして亡くなった人に対して人々は

「勿体無い、まだやれることがあったのに」などと言います。

しかし私が瞬間的に思ったことは、

人より早くゴールテープを切ったんだな、でした。

 

いずれ私もこのときが来るのだけど、この人は昨日がそのときだったんだな、と。

 

この世での出来事が重要だと考えるのはこの世に生きているから。

高次元的に考えると、形を変えたに過ぎない。

のかもしれない。

 

「なくなる」の本当の意味を私たちは知らない。