モノミオン ラボ

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monomion Labo

「孫をつくることが一番の親孝行だよ!」なんて言われた日にゃ・・

  

先日、とある高齢者の方に

「孫を産んでくれることが最大の親孝行だよー」

なんて言われました。

 

それほど孫は可愛いものだと言うことでしょう、

その現れである表現だったのだろうと思います。

 

しかし、

 

これを親に言われたらたまったもんじゃないな!とも感じたしだい。

 

言った高齢者の方も他人である私だから言えたのだろうし、(多分)

特に深い意味はなく、ただのおしゃべりであったのだろうと思いますが。

 

 

ではなぜ私がこれを親に言われたらたまったもんじゃないと感じたか、

 

別の言い方をしてみると、

 

親が子に言うべき発言ではない、と感じたということになります。

 

 

孫を見るために子供を産んだの?

 

と言われかねない。(例えばですが)

 

するとどうでしょう、

言われた親は立場ないですね。


「ああそうだよ」とは言いにくい(´д`)

 

 

こういう親の思想だと、

 

(一例)

お金も時間もたくさん使い親の世話をしているが

子供を作らなかった、あるいはできなかった長男

 

それに対して、迷惑ばっかりかけて親に何もしてこなかったが子供を3人産んだ次男

 

この場合、親からの評価と感謝は次男へ向き、さらに遺産は孫のいる次男へ全部いく、

なんてことも起こりかねない。

 

 

そもそも親孝行と言う言葉は親が使うべきものなのか

という疑問もあります。

 

ほぼほぼの可能性で親のエゴで子供は生まれてき、

親の洗脳を受けて育っていきます。

 

そんないたいけな我が子に親孝行まで求めるのか!

とも感じますけどね。

  

 

とは言っても孫を見たいと思う親の気持ちもわかる

 

批判的なことを述べてきましたが、

人が孫の顔を見たいと思うというものは不健全なことではないだろうし、

 

いくらうだうだ言っても、事実、人は孫の顔を見たいもの!

 

 

 

ではなぜ、親は孫の顔を見たいと思うのか

 

動物に備わる子孫繁栄の本能というものがまず先に思いつきますが、

これは一つの大きな仮説としておいておき、今回は別の視点から考えたい。

 

さらに、

私は親ではないのであくまで、子供すらいない人間の単なる想像としての考えであることを了承していただきたいと思います^^;

 

 

ゴールとしての子供、孫、子孫 

 

子孫を残すということは人生における一種のゴールの形ではないか!

 

もちろん、子供に関しては独立させるまでであり、

孫の誕生はその集大成となる出来事になります。

 

人間とは目標やゴールが必要な生き物ではないかと感じます。

その理由の考察は今は横に置いておき。

 

その目標やゴールを達成したからといって何かが起こるわけでもありませんが、

目指すものがなければ生きることに疑問を感じ、生きづらくなってしまいます。

 

 

さらに人間には自分が生きた証となるものを残しておきたいという欲求もあるように思います。

自分と強く関わりのあるものをこの世界に生み出し、残していきたいわけですね。

(その理由についても今は考えませんが)そのように感じます。 

 

そうなると子供を作り、さらにこれにも子ができるということは欲求を大きく満たすものと思われます。

 

 

一見無意味な仕事でも

 

世の中、無意味であろう仕事が多々あります。(無意味が悪いという意味ではありません)

公共的に完全に無意味なものから、

個人的に的に無意味だと感じるものまで様々あります。

(こういうことを書くと全ての物事が無意味なものに感じてきますがこれも横に置いておきます)

 

これらの仕事をしている人はある段階で、

(あるいは社会的に意味のある仕事をしていても)

自分の仕事に対して自己疑問に陥らないのだろうかと思うことがあります。

ふと、

何で自分はこの仕事をしていて、最終的には何になるのだろうみたいな疑問ですね

 

しかし 

 

自分に子供がいるならば、

 

その経済活動で一応お金を獲得し、

子供に満足のいく生活をさせているのなら意味のある営みになってくるわけですね。

 

そしてその子供がきちんと孫をつくることになったあかつきには、

自分の人生間違っていなかったなと大いに思えるわけです。

 

その満足感

「孫をつくることが一番の親孝行だよ」

と言う言葉になるのかなと思いました。

 

 

 しかし人生や仕事に意味を考え出したらキリがありませんよね (´д`)

 だけど考えることで何かしらの社会的、人間的軸が作られている気もします。

 

「何かしら」が何であるかというのもまたよくわからないですけどね。